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人間関係構築術。16「受け容れるべき痛みと、取り除くべき痛み」

さてシックスティーン。
華のセブンティーンまであと一歩。
ファイナルファンタジーでいうと
最新作ですよもう。

FF16やりたいなぁ…
買おうかなぁ…
って悩んでたら
FF7rebirthがもうすぐ発売。
なんという時流の速さ。
前のFF7remakeが
4.5年前だったような…?

ちょうどその頃は
自分の身に(自業自得とはいえ)
さまざまな痛みが降りかかった時期でした。
寝ても醒めても、頭の中に
負の情念がこびり付いて離れない。
有効な打開策がないまま、
傍目から見れば「普通に」働いてた自分に、
今となっては感心さえします。

生きることとは
そのまま痛みを伴うこと。
頭で理解はできていても、
いざ自分がその痛みに直面すると
なかなか受け入れ難いものです。
なぜこんな目に、とか…
なぜ自分だけが、とか…
どうしても、その痛みに対しての
不満や嘆きが頭をもたげてきます。
痛みというものは、人の心をそれ一色に
塗りつぶしてしまうほどの支配力を
持っていると言えるでしょう。

その「痛み」のジャンルは、大別すると2つです。
今回のnoteのタイトルにもあるように

「受け容れるべき痛み」と
「取り除くべき痛み」です。

まず「受け容れるべき痛み」とは何か、
結論から申し上げますと
「自分に非がある、自ら種を蒔いた痛み」です。
肉体的なものであれ、精神的なものであれ、
自業自得の痛みというものが存在します。
例えば、
人に暴力を振るわれて痛みを感じたとしても、
そのきっかけが自分の暴言にあったとすれば
それは「受け容れるべき痛み」となります。
人に暴言を浴びせられて痛みを感じたとしても、
自分の振る舞いがその人を侮辱していたならば
それも「受け容れるべき痛み」です。

この捉え方は多くの人にとってかなりセンシティブ、
というより
セーフティラインを大幅に超えているかもしれません。

理由はどうあれ、人を傷つけてしまった場合はルールに則り
罰せられて然るべきだということは承知しています。
ですが昨今の報道を見ると、
「被害内容とその規模」にフォーカスされすぎていて、
「被害者の品性」には言及されていないこと
に強い違和感を覚えます。

ここで僕が言っているのは
ルールの方がおかしいとか、法律を変えるべきだとかいう話ではなく、
人間の持つべき品性・あるべき精神性の話です。

少し逸れましたが、次は
「取り除くべき痛み」です。
これも自明のことのように思われますが
「自分に非のない、偶発的な痛み」
がそれに相当します。
自分が交通ルールを守っていても
貰い事故に遭うことがあるように、
自分が丁寧な応対を徹底していても
相手に激昂されることがあるように、
誰かの協力を仰いだり、慰めてもらったり
何らかのフォローやケアが必要になる痛み、
それが「取り除くべき痛み」です。

二種類の「痛み」について綴ってきましたが、
快刀乱麻を断つがごとき事象が多くないのと同じく、
この二種類の「痛み」も
客観的にどちらかを判断することは難しいのです。
「受け容れるべき」なのか「取り除くべき」なのか、

それを判断するのは
痛みを受けた自分自身です。
痛みの判別は、主観的に行うしかありません。

第三者にできることは、
痛みを受けた人の気持ちに寄り添って
共感したり憐れんだり、といったことなので
「取り除くべき痛み」の際しか出る幕はありません。

大切なのは「痛みを受けた主体」が
我が身を振り返り、痛みの判別をすることなのです。
痛みがどちらに属するかで、
そこからの復帰方法が変わってきます。


昼休み、静かな環境でカタカタやってたので
えらく真面目な文体で綴ってしまいました。

それではまたお付き合いいただけると幸いです。
ありがとうございました。

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