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会社を設立しました。その理由と想いなど。

去る4月15日に、「合同会社ばとん」を設立いたしました。
私は、この会社での事業を通じ、「自分の好きに気づく力」を失った方へのお手伝いをしたいと考えています。

自分の好きに気づく力とは、「何が」「どんな状況が」自分は好きなのか、を考える力と言い換えてもいいかもしれません。現代の日本は、もともと人間に備わっているはずのその力を考えさせないような仕組みになっているように思えてなりません。それらを取り戻すお手伝いをしたい、というのが会社設立の原点です。

新型コロナの捉え方

ところで、話が急に大きくなりますが、今回のコロナ騒動は資本主義への挑戦である、という意見が散見されます。私もまったく同意見で、規格品の大量生産大量消費を前提とした効率主義に基づく一極集中の中央集権国家という体制のリスクがここまで顕在化したのは(東日本大震災も含め)極めてエポックな出来事だと感じます。

これまでも「脱資本主義」というような議論は盛んにされていましたが、それが文字通り机上から膝上へ降りてきた肌感があります。「これからやるべきこと」ではなく、「いまやらざるを得ないこと」へ変化したのだと。

私は以前から、日本は中央集権的資本主義から脱却した自律分散型「ネオ江戸時代的」資本主義、廃藩置県ならぬ「廃県置藩」を目指すべきだと考えていたので、今回の騒動による戦後経済の亡霊的社会構造に否応なしに起こるであろう変革に対しては極めて前向きに捉えています。
(勿論、「だからコロナがきてよかった」という意味ではありません。実際にコロナに苦しんでいる方や医療従事者の方々の惨状などは国家として早急に対応すべきと考えます。あくまで「結果的に社会構造が変革する契機になった」ことへの積極的評価です)。

これまでの社会構造

話を少しミクロにうつすと、戦後日本の社会は、敗戦国であるが故の戦勝国の下請け的立ち位置による中央集権型資本主義の教科書のような構造としてこんにちにまで至っています。そのような社会構造では、規格品の大量生産大量消費を前提としているため、その産業に従事する人材も規格品が求められます。金太郎飴のごとく、個性よりも平均が求められる社会(≒会社)だったといえるでしょう。その結果、戦後日本の学校教育は極めて画一的(気をつけ、前へならえ、組体操などがいまも根強く残っている点は象徴的です)なものとなり、極端に言えば、全教科にわたってドリルを解き続けることが勉強だと生徒に信じ込ませてきました。本来、学ぶということは、自分で問いをみつけ、自分で考え、自分なりの答えを出すことのはずなのに。

学生の間ずっと、常に問を与えられて育った人たちが、金太郎飴養成所とも言える社会に送り込まれた結果、「何が」「どんな状況が」自分は好きだと思うのか、を考える力が根こそぎ奪われている、私はそう感じています。その社会構造に取り込まれ、「自分は何が好きなのか」を考える時間と力を奪われた帰結がG7中最悪の自殺率だと私は考えています。私も実際、新卒で入社した会社があまりにも自身の考えとは相容れず、非常に悩み、会社に行くぐらいなら…ととんでもないことを考える場面もありました。今思い返せば、23、24歳という年齢でそんなことを考えるなんて信じられないし、単純に辞めれば良いだけなのですが、当時それぐらい思い詰めていたのは事実です。それほど、考える力は無意識下に奪われてしまうのです。

ではどうしようか?

ここでようやく会社設立の動機についての話に戻ります。最初の方で、事業を通じて「自分の好きに気づく力を失った方へのお手伝いをしたい」と書きました。少しわかりにくいかもしれませんが、かいつまんで言うと「日常の小さな気づきを大切にできる心」を取り戻そう、ということです。日常の小さな気づきを大切にできる心がなければ、「何が」「どんな状況が」自分は好きなのかを考えることはできません。なぜなら現代日本は、先程申し上げた理由から、それらを考えさせないような社会構造になっているからです。

私は、社会構造が中央集権型資本主義からの変革を余儀なくされる中で、そのような「自分は何が好きなのか」を考える時間と力を奪われ疲れてしまった方々に、「日常の小さな気づきを大切にできる心」を取り戻すお手伝いをしたいと考えています。

日常の小さな気づきを大切にできる心を取り戻せれば、自分は「何が」「どんな状況が」好きなのかを考える力を取り戻せます。なぜなら、日常の小さな気づきこそ、自分が「好きだ」と思うことそのものだからです。そして、自分は「何が」「どんな状況が」好きなのかを考える力があれば、自分が「どう働きたいか」「どう生きたいか」を考えることにつながるでしょう。それこそ、社会構造が大きく変革し、中央集権型資本主義(考えを奪われた金太郎飴が跋扈する世界)が終焉を迎えるこの時代に必須の素養だと考えます。そして、幸か不幸か日本には自分の好きに気づけずに苦しんでいる人たちがたくさんいます。言い換えれば、その人達こそこの国の伸びしろなのです。

日常の小さな気づきを大切にできる心を取り戻すには。

「日常の小さな気づきを大切にできる心」を取り戻すには、自然豊かな土地を訪れるのが一番です。日頃、中央集権型資本主義の帰結であり人間が住みやすいようにはデザインされていない大都市で過ごすことで様々な感覚が麻痺し疲弊したときこそ、人間が本来持っている感覚を取り戻すために自然に返る必要があるのではないでしょうか。


石川県珠洲(すず)市の海沿いの水田

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石川県羽咋(はくい)市の神子原(みこはら)の棚田

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兵庫県南あわじ市の灘地区

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これらの場所を訪れると、自然と人間らしさを取り戻し、「幸せな深呼吸」ができるような気がしています。

現在の状況では、つい数ヶ月前のような気軽さで上記の地方を訪れることができなくなりました。そして当面のあいだ、コロナとともに生きていく社会にならざるを得なそうです。それでも、いや、だからこそできることがきっとある。そう考え、これから事業を進めていくつもりです。まだウェブサイトや名刺すら準備中の段階ではありますが、進めたい企画もいくつかありますので、然るべきタイミングでお伝えできればと思っています。

最後に。社名の「ばとん」について、
ばとんの「ば」は場所の「ば」
ばとんの「と」は問屋の「と」
ばとんの「ん」は気付きの「ん?」
をそれぞれ意味します。

幸せな深呼吸ができる「場所」の「良いものと良いコト」を通して、「日常の小さな気づきを大切にできる心」を取り戻そう、という意味を込めています。そしてその心こそ、次の世代に託すべきバトンなのだと私は確信しています。

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