「慰撫〜Eve〜」第1話
【あらすじ】
世間知らずの主婦だった琴に起こったある初老の男性との出来事が、彼女の人生を狂わせていく。洗脳と共依存、自己肯定感を奪う罠、琴は迷い込んだ先で精神崩壊という底なし沼に嵌りかけるが、そんな琴の前に現れた昭という不思議な男性との交流が彼女の心の支えになっていく。
琴は憎しみを復讐に捧げるのではなく、もっと美しいものにするために苦悩する。そんな琴を昭は優しく労り介抱するのだった。
ある日、二人はとある祭を見るために山寺へ向かいそこで神秘的な体験をする……。
生きるための自分自身の力に罪悪感を覚えてしまう苦しみ、葛藤、本当の自分との出会い、それに気づくまでの道のりを描いたものがたり。
【プロローグ】
「こんなに可愛らしい人……」
そう呟く彼の目は、目の前の彼女を慈しみ、憐れみ、愛する眼差しに溢れていた。
母さん、なぜ僕の前からいなくなったの? なぜ何も言ってくれなかったの?
なぜ、死んだの?
お願い、僕を捨てていかないで、僕を一人にしないで……
【第一章】
中庭に芋虫が大量発生している。ゴールデンウィークが終わっても、まだ肌寒い日が続いていたが、五月の中頃に入ると急激に気温が上がり出したため、一斉に孵化したのだ。元々、芋虫が大の苦手な琴にとって、グロテスクな姿のあの生き物が蠢く様子は、なんとも言えず気持ちが悪く、腹の底から嫌悪感が湧いてくる。
芋虫は、大きいものや小さいもの、目に見えるものだけでも十匹はいる。しかし、琴はそこから何故だか目が離せない。サッシの窓ガラス越しに、気がつくといつの間にか三十分以上中庭を眺めている。ふと、神の世界でも人間を芋虫のように見ているものがいるのではないだろうかという考えに囚われる。きっと、神の目から見れば人間は、今ここから見ている芋虫のように見えるのだろう……
都会の古民家であるこの家の庭は坪庭になっていて、外部からは隔離されている。外敵も来にくい、安心して芋虫たちは成長していけるだろう。琴はその時正に神の位置からその光景を眺めていた。
「あの幼虫たち、そのうち綺麗な蝶になるだろうけどね」
後ろから昭が話しかけた。昭はこの家の主人だ。彼は治療家で、以前は別の場所で治療院を営んでいた。琴と昭が知り合ったのは一年前、彼がこの古民家に引っ越してきて間もなくのことだった。
昭は本人曰く、腕のいい治療家として以前住んでいた町の地元では有名で、人気もあったらしい。ところが、ある時期から西洋医学や東洋医学の限界を感じ、人間の自己治癒力を高める道をもっと究めたいとの思いで十年間営んだ治療院をたたんだ。最初のうちは貯金を切り崩してやりくりしていたものの、財産が底をつき、一時はホームレス寸前にもなったという。
しかし、そんな中で聖書や仏教に出会い、それを学ぶうちに自分が探していた道を見出し、本物の治療家になるべく、人知れず開業したこの町で改めて修行しているのだと言った。
「芋虫は、鳥たちにとっては美味しい餌になる虫よね。なぜ人間には害虫扱いされるのかしら」
琴は昭の方を向いて言った。
「きっと人間が愛する草花を食い荒らすからね。そして、圧倒的に嫌われる原因はあのビジュアルだわ、姿形や動き方が人間をゾッとさせるのよ。あの子たちは、ただそこにいるだけで嫌われる」
「ただそこにいるだけで……」と、昭が琴の言葉を繰り返した。
琴は改めて芋虫をじっと見つめた。
「私、この子たちを生かせられるかしら」
「え、生かすって、芋虫を?」
「そう」
琴の表情からその意図を読み取れないようで、昭は黙っていた。
「あの芋虫たちの存在を消してしまう権利なんて私にはないもの」
「……そうなんだ」
まただわ、と琴は心の中で苛立った。昭の、そうなんだという口癖が琴は嫌いだった。なんだか突き放されたような気持ちになるのだ。でも一方で、自分はいったい何を言っているのだろうと冷静に思わせられもした。
「明日は仕事休みなの、ここで寝ていっていい?」
「息子さんは?」
「大丈夫、実家の両親に頼むから」
「……いいよ、琴の好きなようにすればいい」と昭は言った。
「この家は私を癒やしてくれるの」
「ここが?」
「そう、このボロ屋が」
昭が笑った。
「私を受入れてくれたから」と琴が言った。
「ここは琴の居場所だよ」昭が言った。包み込むような穏やかな笑顔だ。
うん、と琴はうなずき、昭から視線を逸らせた。昭は何も言わずにそんな琴を見つめた。
琴は現在は独身だが、子どもがいるシングルマザーだ。二年前に夫と離婚して、今は幼い息子と両親のいる実家で暮している。仕事は近所のスーパーでレジ打ちをしている。昭とはそこで出会った。
琴は昭と出会った一年前のことを思い出していた。
不思議な出会いだった。
感覚も頭もいいけど、表現力が乏しいと嫌われやすい。感覚も鈍いし頭も悪いけど表現力が豊かな人は好かれやすい。感覚も頭も表現力も最高級な人は憧れられるが孤独になる。感覚も頭も表現力も最低級な人は干渉されないし興味も持たれないので自由だ。
昭に誘われて初めてデートをした食事の席で、彼はそんなことを言っていた。
「琴さんはカラスの羽を近くで見たことがあるかい?」
「いいえ」と琴は言った。
「遠目から見ると真っ黒に見えるのに、近づいて見るとうっすら虹色に輝いているんだよ」
僕はカラスのような表現力が欲しいんだと、昭は言った。
いくつもあるレジの中で、いつも決まって琴のレジで精算していくお客がいた、それが昭だった。自分の気に入ったレジ打ちの人を選ぶお客は他にも何人もいた、だからそれ自体はそれほど珍しくはなかったのだが、琴はなぜか彼のことがとても気になっていた。痩せていて、なんだか暗くて、独特の雰囲気をもっているように感じた。それはとにかく異質であった。それなのに、近くで見ると案外腕や肩の筋肉がしっかりしていて、見た目ほど華奢な体格ではないことが分かった。(この人は何か重たいものを背負っている)そんな気がしてならなかった。
あの日の事件が昭と付き合うきっかけになった。その日もいつものように琴はレジ打ちをしていた。ふと、彼のことが心に浮かんだ。
「あの人がもし、ここに急に来なくなったらつまらないだろうな」
そう思ったとたん、琴はこの仕事を続けることが嫌でたまらなくなった。今日はまだ彼は来ていない、もし来なかったらきっとものすごく不安になってしまうのではないだろうか。なぜだかわからないが、そんな考えに囚われた。この仕事辞めようかな、と琴が考えたとき、大丈夫ですか! という叫び声が聞こえた。声のする方を向くと入り口の近くで人々がざわついている。見ると高齢者らしいおじいちゃんが倒れていた。転んだのだな、と琴が思う間もなく一人の男性がすっとあゆみより、おじいちゃんに寄り添った。見るとあの彼だった。
冷静におじいちゃんを介抱する彼から、琴は目を離せなくなった。店員が救急車を呼び、おじいちゃんは病院へ運ばれていった。何事もなかったかのように、店は元通りになった。
気がつくと琴のレジに行列ができている、いけない、仕事しなきゃと琴は焦って目の前の客を見た。
「あ、お、お待たせしました。」目の前にいたのは彼だった。琴の心臓が高鳴った、その時どうしようもなく抑えられないような感情が動き始めたのを琴は必死でこらえた。
彼の手で触れられたい、彼に介抱されたい……琴は、術なげに自分がそう感じているのがわかった。
仕事を終えた琴は保育園に息子を迎えに行くためにいつものように従業員用の自転車置き場に向かっていた。
すると自分の自転車の横に人影が見える、同僚の人かなと思い「お疲れ様です」と声をかけると、琴はその人の顔を見て息が止まりそうになった。
「こんにちは」とその人は言った、昭だった。
保育園に向かう道中、琴は自転車を押しながら昭と並んで歩いていた。
「ずっと、あなたと話がしてみたいと思っていました」と昭は言った。私もです、と、琴は心の中で思った。でもそれは言わずに「どうしてですか?」と昭にきいた。
「どうしてかなぁ、なんとなく」昭が言った。
「なんとなく……」琴が昭の言葉を繰り返して言った。
子どもっぽいいい加減な答えだなと琴は思った。
「あそこでずっと、私のことを待っていたのですか?」と琴が言った。
「そう、ごめんね。気味の悪いことしちゃって」昭が申し訳なさそうな顔をした。自分がしたことに戸惑っているという感じがした。
行動は強気なのに、本当は気が弱い人なのかもしれない。そう思いながら、ううん、と琴は首を振った。
琴はうれしかった、あの事件の後、自分が彼に抱いてしまった思いに対して罪悪感のようなものを覚えていたのだ。私はこの人に介抱されたいと思った、そしてその人がこうして私に会いに来てくれた、それは決して説明のつかない出来事だと琴は思った。
「あの……」昭が琴に話しかけた。「もし、よかったら今度お食事にでもいきませんか?」昭が言った。
とても優しい声だった。その声は琴が今さっき彼に抱いたなまめかしい感情を思い出させた、琴の顔は赤くなり胸が高ぶった。琴はそのとき初めて、昭のことをじっとよく見た。瞳の色が綺麗だ、深いのに透き通っている。よく見るとかなり整った目鼻立ちをしている、姿勢も美しかった。
「こういうこと、よくされるのですか? あの、つまり……なんかこう、ナンパみたいなこと……」そう言って琴はすぐに後悔した。彼を傷つけてしまったかもしれないと思ったのだ。
「いや、こんなことしたのは初めてだ。でも、そうだよな、そう思われてもしかたないよね」昭が恥ずかしそうに笑いながら、頭を掻いた。そのしぐさがとても自然で、琴を安心させた。
「いいですよ、食事いきましょう」琴はそう返事をした。昭がびっくりした顔をして、「ほんとう? うれしい」と言った。その無垢な表情を見て、ちいさな女の子みたいと琴は思った。
夜中胸騒ぎがして目が覚めた。喉がひどく渇いている。水を飲みに行くために家の廊下を歩いていると、たくさんの何かがいる気配がする。それは中庭に出るサッシの窓から伝わってくる。
琴が恐る恐る窓越しに中庭を覗くと、あのたくさんの芋虫達が蠢いている。琴は怖いのにそこから目が離せない「あれは?」何か違和感を覚えて目を凝らして見た。しばらくじっと見ていると、あり得ない光景が目に飛び込んてきた。
思わず叫び出しそうになり、琴は自分の手で口をふさいだ。芋虫だと思っていたものは、もっと大きな気味の悪い形をした生き物だった、琴は息を飲んだ。それは琴の方に向かって這ってくる。
「やめて、来ないで……」
叫びたいのに声にならない、全身の震えが止まらない。琴は立っていられなくなり、その場に座り込んだ。
「おい、大丈夫か?」
気づくと昭が側で琴の肩を抱いていた。心配そうに琴の顔を覗きこむ。琴は昭に抱きついて、その胸に顔を強く押し付けた。
「虫が、虫が、襲ってくる」
「大丈夫だよ、琴」
昭は片方の手で琴の頭を撫でながら、子どもにするように、もう一方の手で琴の背中をポンポンと優しく叩いた。「ブッセツマカハンニャハラミツタシンギョウ……」
昭が子守歌のように般若心経を唱える、それは琴の心に薬のように染み入ってくる。
苦しみなんて始めからは存在しない、苦しみは、自分自身が作り出したものだ。わかっている、わかっているのだ。何かを作り出せる力は素晴らしいのに、それをなぜ人は苦しみにしてしまうのだろう。
「うっ、うっ」琴がすすり泣く。
「よしよし」まるで子どものように泣く琴を昭が静かになだめる。昭は琴を抱いていた腕を緩めると、両手で琴の顔を包み込み、唇を重ねた。
「琴、眠ろう、側にいてあげるから」
そう言うと、昭は琴を抱き上げて寝室へ連れて行った。部屋に入るとサンダルウッドの香りがした、オイルランプの炎が揺れている。昭は琴を布団の上に寝かせ、自分はその横に添い寝をした。
「胸が苦しい」と琴が肩で息をする。昭は琴の手首に触れて脈を取るしぐさをした、そして琴の胸に耳をつけると「脈動が強いね、また乱れてる」と言った。
「体の中で心臓は神の臓器なんだ、琴の中の神が乱れてる」
「私の中の神……」琴はまるで泣く子をもてあましているように、なかなか静まらない自分の中の神に苛立ちを感じていた。
厳かで重々しい雰囲気の中、それは何かの儀式のように、落ち着いたかと思えばまた繰り返し起こる。
その夜、琴は何度も発作を起こし、昭は一晩中琴を介抱した。
琴は目を覚ますと、横で眠っている昭の寝顔を満足そうに眺めた。さっきまでの不快な気分は治まり、嘘のようにスッキリしていた。
もし昭に出会えていなかったら、自分は今どうなっていただろうと琴は思う。こうして夜明けを迎えられる喜びを二度と思い出せなかったのではないだろうか。カーテン越しの朝日が柔らかい、今の琴にはちょうどいい明るさだ。長い間闇で過ごすと、人は目が退化してしまうのだ。そのかわり、嗅覚と聴覚がものすごく冴えてくる。こんなにも世の中は悪臭と騒音に溢れているのかということも思い知らされる。琴には綺麗な水が必要だった。汚れた衣類を淀んだ沼地の汚水で何度洗っても、根本的には綺麗にならないのと同じように。自らの穢れを取り除くためには、たくさんの清水をかけ流して洗わなければならなかった。
たくさんの清水とは、無償の愛だ。汚物にまみれた自分自身をもそのまま受け入れ、愛し、慈しむ心があれば人は生き返ることができるのだと琴は知った。それは、悟りなのかもしれない。しかし、人は悟るために生きているのではない、大切なのは、生き返った後の生き方なのだ。
「あっ」琴の体がビクッと動いた。いつの間にか目を覚ましていた昭の手が、琴の胸を服の上から触っていた。
「おはよぉ」そう言うと昭は琴に近寄り、服を全部脱がせて露になった乳房を口に含んだ。太ももを触りながらそのまま足の間に手をすべらせると、割れ目の中に指を入れて擦った。「ん……」声の混じった熱っぽい息が、琴の口から漏れた。それから昭は自分も服を脱ぐと、琴の上に重なった。全てが終わると、裸のままで二人は抱き合った。
「君を大事にしたいんだ」と昭が言った。
「それはどういう意味?」と琴が言う。
「意味? 意味なんてない」
真面目に言っているのか、はぐらかされているのか、琴は昭の気持ちを図ることができない。
「あなたみたいな変な人、見たことないわ」
そう言うと、昭の顔を睨むようにじっと見つめた。
しばらくの間、琴の視線を昭は目で受け止めると、それから、琴を自分の胸に押し付けるようにして、強く、抱いた。
「琴の体はいいね」
フフッと琴は笑った。
「このままずっとこうしていたくなる」
悠揚として迫らぬ態度で昭は言った。こういうことを照れずに言える昭がとても遠い人に思えて、琴は心細かった。
「私は自分の体が好きじゃないの」
「どうして?」
「美しいと思えないから」
「琴は美しいよ」
琴は首を振った。
「美しくもないし、価値もない」
「そんなこと言うなよ」
昭は琴のお腹を撫でた。「健康な子を三人も、産んでる」
「でも私はまともな母親じゃない」強い口調で琴は言った。
しばらくの沈黙があった。「そんなことないよ」溜息とともに、昭はそう言った。
琴には三人の子どもがいるのだ、そして上の二人の子は別れた夫が引き取り、一番末の子を琴が引き取った。昭はそのことを知っているが、そうなった理由を聞くことはなく、琴も話したことはなかった。
「もう、限界なの」
「何が限界なの?」
「罪から逃げ続けるのはもう限界なの」
「罪って?」
「私は地獄に落とされたの、地獄を生きているの、こんなにも苦しい日々を、死ぬこともできずに生き続けなければならない」
「琴は死にたいの?」
昭にそう聞かれて、琴は返事に迷った。
「あなたにまだ話していないことがあるの」
ことさら堅苦しい態度で、琴は言った。
「二年前……私は幸せも不満も人並みの普通の主婦だった。」
昭は黙って琴の話を聴いていた。
「お金や人付き合いに不自由はなかった」
「そうなんだ……」
あいかわらず琴は昭のこの口癖が気に入らなかった。しかし、なぜかこの時、今まで誰にも話せずにいたことを、昭なら素直に聴いてくれるような気がした。否定も、肯定も、どうでもいい、ただそうなんだとありのままに聴いてほしいと思った。
「あの頃の私は、子育てや家事やパートの仕事を日々こなしながら、そんな当たり前の現状に、満足できずにいた……」ぎこちない口調で、琴は話し始めた。夫の仕事は忙しく、常に不機嫌そうな彼の顔色を伺う毎日だったと琴は話した。
「それでも、ものごとというのは蓋然的にうごいていくものだと思っていたわ。なるようになるんだって」
琴の声が震えた、昭が琴の顔を見た。
「人が人の考えを、根本的に変えることができると思う?」と琴が言った。
「それは、洗脳ってこと?」
琴は戸惑った表情を浮かべた。
「……私はあの時の自分がした行動が未だに信じられないし、自分の事なのに理解、納得ができない」
そう言うと、琴は込み上げてくるものを抑えきれずに、声を押し殺して泣き出した。ああ、わかるよと、昭は少しも動揺することなく状況を受け入れると、琴を抱きしめて優しく背中をさすった。
「ごめんなさい」
私は何に謝っているのだろうと昭の胸の中で琴は考えていた。
時間は朝の十時を回っていた。世の中が慌ただしく動いている。
二人のいる空間だけが、いつまでも静かに止まっていた。
次回に続く……
第2話
第3話
https://note.com/liyengo/n/n0a05821a88e
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