ミニマリストと宗教:みんな「枠」を求めてるのかもしれない。
【マイ大草原と小さな家ブーム】
「自分が持ち運べるモノだけで生きる」ということが子どもの頃からの憧れだった私。というのも、小学生の頃の私は『大草原の小さな家』の熱狂的なファンで、ドラマは勿論必ず観ていたし、本はシリーズを親に頼んで買ってもらい、ビデオというものが世間よりも、かなり遅れて我が家に来たときに、再放送か、再再放送かだったものを必死に録画しては、毎日観ているという生活を送っていた。
遊びは勿論、「大草原の小さな家」ごっこ。
鞄に大事なものを厳選しては入れ、(なぜかここは「アルプスの少女ハイジ」からの拝借で)干し草で作ったベッドにお気に入りの、唯一家にあった舶来製の膝掛け(日本風の花柄とかではどうも気分が上がらなかった記憶がある)をカバーにして寝るという舞台設定にして遊んでいた。
馬車に家財道具全てを乗せて、未知なる土地へ家族で移動するという、あの物語になぜかものすごく心惹かれていた。たぶん、家の中に色々と問題を抱えていたから、安定した家族像とかに憧れて、現実逃避してたのだろう。
【探検部ブーム】
とにかく「モノ」を最小限に持つことに憧れてしまった少女が次にハマったのは「探検部」。登山や河下り、沢登り、色々やったけれど、どの活動でも大事なのは「モノ」をどう持つかということ。
体力もない私も万が一、遭難したときに数日間、生き残るためのものは持たないといけないし、活動で使う道具も工夫と分担で担いで行かねばならないしで、このときの経験は今でも役に立っている。ただ今だに新しいアウトドア用品を見る度にいちいちキュンキュンなってしまうのは困る。もう探検しないのに。
【旅とヨーガブーム】
そして旅に出る場所がどんどん広がったときも、バックパックになにを、どう詰めて持って行けば、この数ヶ月の旅を快適に過ごせるのか?を常に考えるようになったことも、「モノ」と向き合うことの好きな私には楽しいことだった。
そして当時の旅のパートナーだった今は亡き前夫が教えてくれた『モノの多さはカルマの多さ』という言葉と、これまたハマり始めたヨーガとの相性も良くて、「モノ」について考えると「自分の心が見えてくる」という当たり前のことに気がつくようになった。
当時はタイやインドをベースにして暮らしていたこともあって、現地の人たちの暮らしを目にする機会も多かったし、ヨーガがきっかけで色々なアシュラムを訪れてみたり、テーラワーダ仏教や日本のお寺の瞑想に参加したりもしてたので、宗教者の暮らし方というものにも自然と目がいくようになっていった。
【気づき】
これらのダラダラとした前書きには、ある共通点があることにお気づきだろうか。(わかんねーよ)
そう!(タイトルに既に書いてるし…)『枠わく』(ワクワクじゃない…)。みんな『枠』、規制というか、制限というか決まりとか限界でもいいのだが、とにかく、どのシチュエーションもモノの持ち方に制限がある。
本当に不思議なんだけど、お金もないくせに、モノって放っておくと際限なく増える。だけど、ローラ(大草原の小さな家の主人公の女の子)の家は幌馬車に詰めるだけしか持てないし、探検部も旅も自分のザックに入って自分で背負えるだけしか持てないし、宗教者達も心の鍛錬のために余計なモノは持たないし(持てない決まり?)、モノの量に制限が与えられている。
なぜか、この「制限が与えられている」というところに、すごく魅力を感じたのだった。
今でこそ、かなり改善されたが、私はかつて入院しなければならないくらいの超重症アトピー性皮膚炎を患っていた。
普通なら人生で一番きれいで、キラキラして、楽しんでるような年頃に全身包帯巻いて、ほぼ寝たきりの引きこもりで全身の痛みと痒さとで暮らしてた頃があった。
その頃もアトピーのせいで色々と諦めなきゃいけないことがたくさんあったのだけれども、「これは私に与えられた「枠」なんだ」と思うようにしたら、ちょっと前向きになれだし、治療や制限を楽しむことができるようになった。
例えば、肌がボロボロだったから、化繊のものは一切ダメとか、化粧品も使わないし、治療の一環でお肉やインスタント食品や農薬なんかを避けてたりとか、ちょっと時代が早かったけど、かなりエコフレンドリーな暮らし方をせざるを得なかった。
『地球に優しいものは私にも優しい』っていう一人キャンペーンを開催して一人で楽しむようにして、「地球に優しい枠」を自分に課してみた。そんなことしてたら、時間はかかったけど、アトピーもかなり改善していったし、モノとの付き合い方を見つめるよい時間でもあったと気がついた。
そして、今、私はイスラム教徒。改宗前と比べると、色々なことが出来きなくなった。豚肉ダメ、お酒ダメ、髪の毛や肌を見せるのはよろしくないとかとか。
たまに、うっかりして豚肉エキスとかが入ってるものを食べちゃった!ってことはあるが、基本、豚肉は食べないが生きていられる。お酒も改宗してからは一滴も飲んでない(過去の私を知る人は驚きだろう!)し、服装の規定もまあまあ守っている。
しかし、なんで色々と面倒なことを守れるのだろうか?守らなくても誰も見てないのに。
なぜに面倒な「枠」に自ら入りたいと思うのだろうか?
やっぱり、人間って弱いし愚かで、すぐに楽な方に流れがち。だから、なにか自分の外側から枠が与えられる方が楽チンなんだと思う。選択することは脳の疲労とどこかでも読んだ。選ぶことが少ないのは脳みその省エネなのだそうだ。
『モノの多さはカルマの多さ』じゃないけれど、やっぱり、私はあんまりたくさんのモノに囲まれてたり、整頓されてない場所にいると心も頭の中も落ち着かない。(でも街はゴチャゴチャしてる賑やかなところが好き…)
少なくとも千年とか続いてる宗教って、やっぱり、それなりに何かしら人間へのベネフィットがあるから続いてるんだと思う。
日本の茶道、花道なんかもそれに含まれると思うけど、人間、「枠」が与えられると眠っていた能力だったり、新しい能力だったり知恵だったりが目覚めるんじゃないだろうか。
少なくとも、私は、頭の巻き物(ヒジャーブ)のお陰で髪の毛のことを考える時間が減って、その分のエネルギーを他のことに使えてると思う。
毎朝、どのヒジャーブを巻くか?という選択の時間は生まれるが、年齢、日本人的頭のカタチという「枠」があるので、段々と私にはこれとこれしか似合わないというような「枠」を確立しつつある。
ヨーガだって、なんであんなヘンテコなポーズ(アーサナ)をするのかだって、アーサナという「枠」に身体を入れる努力をすることで、今の自分の身体を見つめるのである。プラーナーヤーマ(呼吸法)も然り。息というカタチのない見えないものだけど、私達の感情とは切ってもきれない関係にある息を色々なプラーナーヤーマの「枠」に入れ込むことで整えていったり、鍛えていくことで、さらに掴み所のない私達の感情を捕まえにいくためのもの。(と、インドのヨーガの学校とH&H先生から習った)
イスラムもそう。神さま(アッラー)のことだけに集中するために、天国に入れてもらうための最短距離、無駄のない行為をするために色々なことを抑えていく。はじめは抑えていくのかもしれないけれど、その楽チンさに気づいたら、自らすすんで無駄を捨てて行くようになるのではないだろうか?私はまだまだだけど、周りの尊敬するイスラムの人々を見ているとそんな気がする。
ミニマリストという思想、生き方に魅力を感じる人々は「流行」や「おしゃれ」とか、「なんかいいかんじ」というふうに漠然としたところから始まるかもしれないけれど、もしかしたら、人間が持っている「枠」が欲しい!っていう根源的な欲求からきているように私には思えてしまう。制服も「枠」。そして「枠」の中でみんな工夫するのを楽しんでいる。
もちろん「枠」がキツすぎると病む…。家庭の枠、世間体の枠、自分の役割、立場としての枠(母であるとか妻であるとか、会社員であるとか)。「枠」だらけなのに、さらに「枠」を求めてしまう人間って謎である。
【枠はスタイル】
改めて、自分にはどんな「枠」があっているのか、今の「枠」は合っているのかを意識してみるのは面白いかもしれない。
そして他人の「枠」覗きは面白いから、カバンの中身を紹介する動画やブログが人気なのだろう。
「枠」だけで、ここまで話がかけたけど、まだ終わりそうもない。新しい発見があったら追加したいと思う。
(2021.Jan 元の文に少し手を加えた)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?