優しさが一番の時限爆弾。
人からチクチク言葉を言われたら、捨て台詞の一つや二つ言いたくなるのってなんでなんだろう。
私は母子家庭5姉妹の四女なだけあって、
口喧嘩はそれはそれは自信があって家族以外にはほとんど負けたことがない。
私の過去、ジャイアンだった時代はチクチク言葉を言われたり、理不尽な負の感情をぶつけられたら即臨戦体制、言葉で詰めに詰め、投げ台詞を吐いて人を切り捨ててきた。
今考えればあれは全て自分が傷付かないための一種の自己防衛みたいなものだったのかも知れない。
それから時は経ち、人として成長して、心理学を学んで、
今やどんなに理不尽なことでキレられても、心から「(貴方の心を不快にさせてしまって)ごめんね。」とまず謝罪ができるようになった。
どんな理不尽なことであっても。
最近、知り合いの二人の揉め事に板挟みになることがあった。
二人の最後は捨て台詞の言い合いだった。
うん、わかるよ。どっちもの気持ちも、言いたいことも、わかるよ。
でもさ、人ってなんで喧嘩を売られれば買いたくなって、最後に捨て台詞吐きたくなっちゃうんだろうね?きっと、負けたくないんだよね。守りたいんだよね。傷つきたくないんだよね。認めたくないんだよね。
「全部を許せるあなたはすごい。」
何て言われることもあるんだけど。
許せてるのかな????????
と考えた時に、因数分解するとそうじゃないんだってことに気がついた。
人に優しくあって、自分自身が我慢して許すとかそんなんじゃなくて、
優しく下手(したて)に出ることこそが一番残酷な戦い方だと思ってるんだ、私。
勝ち負けから解放されてるわけじゃない。
心の底から全力で、「試合に負けて、勝負に勝ちに行ってる」んだ。
だからそれを選ぶんだ。私は完璧な人間じゃない。
そう思った。
下手に出ることがなぜ一番残酷な戦い方かというと、
相手の感情を正当化させてあげないから。
そりゃ揉めてるその一瞬は感情的になっちゃうかも知れないけど、
それに自分も感情的に乗ってしまうと、相手が後から落ち着いた時に感情的になったことを肯定する理由をあげてしまうことになる。
心のどこかで、「あいつにこう言われたし」「あいつがキレてきたから」とか。無意識に絶対自分の行動を肯定する理由を探すの奴ら(にんげん)は。
どっちに聞いてもこういうよ。「あっちから喧嘩を売ってきた!」
だから相手が理不尽であればあるほど、自分の意見に自信があればあるほど、私は絶対に争わない。
そんな相手の理不尽さ、弱さを肯定してあげる材料なんてひとつだってあげてたまるものか!と思ってる。
感情が落ち着いた時に、自分に言い訳ができない苦しさの渦に埋もれてほしい、自分は絶対騙せないから。とすら思っているくらい、残酷な戦い方をしているかもしれない。
小さい枠で考えるとそんな残酷な戦い方を選択している私だけど、その根底には自分自身の経験もあって。
人生で人が自分の行動がきっかけで本当に大切な人や何かを失ったとき、今までの自分の愚かさを悔いる時が絶対にくる。
そんな時、今までの人から貰った優しさが時限爆弾の様にヒリヒリと効いてくる。
やっぱり自分を一生騙すことは出来ないんだと知る。自分を正当化しようにも限界がくる。
もしかしたら、そんな経験をせずに一生を終える人だっているかもしれない。
そうしたら、試合に負けて優しさをあげた自分が損する??
そんなことは絶対にない。
むしろ、その人はそれまで優しさに触れられなかったから、気づかなかったのかもしれない。
これは、一つ生きることの真理に近いような話かもしれないね。
ブッタの言葉で好きな言葉があって。
「幸せは分け与えてもなくならない。」
幸せも、優しさも、同じだと思うんだ。
どんなに幸せを、優しさを、愛を、分け与えてもなくならない。
ゲージに限りがあるのなら、使う人を選ぶかもしれない。
でも、ありがたい世界だね。無くならないどころか、それを受け取った人は、きっといつか渡せる人になるかもしれない。
私がこんな考えになったのも、きっとたくさんの愛と優しさと幸せを貰ってきたからだと思う。気付くのが遅かった、と思った時もあるけど、今からでもたくさん渡していきたい。
だから、今日も私は人とは争わない。
その人が気づくその日まで、私は自分の持ち合わせているありったけの優しさを配りまくる。
それは優しいからではなく、いつかくるその人の時限爆弾が爆発する日のために。バトンを繋いでいくために、ね。
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