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085. 青さ残る自分が知らない、枯れていくプロセスの中の豊かさに触れたかったのだ。

一日一描。

今日、子育て十牛図はお休み。

午前中から絵の教室へ出かけました。

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まずはぬらし絵から。今日は稲を描きました。水をたっぷりはった水田から光を浴びて苗がぐぐぐっと伸びてきます。

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途中手順を間違えて早くに朱色を入れてしまいましたが(いつもながらおっちょこちょい...)なんとか稲穂っぽくなりました。

今日は、個を描くか、群集を描くか、みたいなところで焦点が揺れました。

稲は近づいてみると、いろんな方向に実りをつけていて、また個体によってたくさん実りをつけるものとちょびっとしかつけないものがあって。

でもひいて群衆としてみると、黄金色にたくさんの実りをつけた豊作の姿。

稲を描くことはまるで、日本社会を描くことだなぁ。

わたしはついいつもの癖で、いろんなふうに筆を使っていじってしまうのですがそうすると個としてバラバラな実りになるのですよね。

たわわ、な感じや豊潤、を表現するには、集団として実るという視点が必要なんだなぁと痛感しました。

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あと、お米を描くには花や果実みたいな潤いを捨て、通過しなきゃいけないんだなと思いました。枯れていくプロセスの中できちんと水分を熱を使い切って種を作っていかなくてはならない。

わたしの描いた絵は稲穂がボワッとしてまだ水分が多すぎる。今のわたしの状態が正にそんな感じなのでしょう。まだ青い。かといって伸び盛りでもない。

つくづく感じるのは、お米ってすごく種子をつけることにエネルギーを注ぐ植物だということ。花も咲くけれど、生い茂る葉っぱに隠れるようにほのかに咲いて、その後熱を一気に種子に集中させて頭を垂れる。エネルギッシュだけど何というか慈愛深い植物だなと思った。

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後半は、粛々とフォルメン曲線。雑念が取れていくようで気持ちよかった。

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描くというよりは線を編んでいくような時間。一番初めの一描きのクオリティを保つって本当に難しい。後半は集中力が切れて気持ちがやさぐれてくるのですが(笑)、なんとかいなして粛々と。

青さ残る自分が知らない、枯れていくプロセスの中の豊かさに触れたかったのだ。


教室が終わって、娘を保育園へ迎えにいく。
いつもは午前中だけだが今日は、9時から15時まで。今までで一番長い保育園の日だった。迎えにいくといつもは「まだ遊ぶ!帰らない!」と駄々をこねる娘だけれど、今日は私の気配を察するや否や飛んできて、「ママー!!寂しかったよ!!」と慌てて靴を履き始めた。

先生がニコニコと優しい笑顔で娘の鞄と水筒を持ってきてくれて、「彼女はとってもスマートで、本当にいろんなことを知ってるんですよ」と今日作った制作物を見せてくれて、今日一日の様子を教えてくれる。後ろからひょこっと娘より一つ上のお姉さんが出てきて「そうなの。いろんなことやったのよ」と説明を加える。娘は得意げに「っそ!っそうそう!」と相槌を打ちながら必死に靴にかかとを押し込むと、両手を広げぴょんぴょんと跳ねてみせた。

このユートピア的な時間が好きだ。
そして、そのユートピア的な時間を守ってくれる先生にとても感謝している。

彼女はまだ黄色い。青さを知らない。

黄色い世界を豊かで楽しいものにしようとしてくださる先生がいることが嬉しい。

黄色い時も、青い時も、赤い時も、そして茶色い時も、すべて楽しいなと思ってもらえるように私も頑張ろう。


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娘の作った葉っぱの冠。


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