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051. 滞在記を書くのは過去への忘れものを拾いに行くため。


bonjour!🇫🇷
7月のはじめから約二ヶ月ほどのバカンスに入っていましたが、今日からまた毎週金曜日更新のフランス滞在記を書きます。

よかったら読みにきてくださいね。

フランス滞在記をお休みしている間に、「一日一描」という100日間絵を描くプロジェクトをはじめました。
9月に入ったらデジタルのポートフォリオ制作に本腰を入れようと計画していたり、毎週水曜日を「水曜日のアトリエ」という親子制作の日としたり・・。

9月以降の予定はすべて、むすめの幼稚園が9月から再開することを前提としており、

「長い夏休みを乗り切ったわたし、お疲れ!
さぁこれでやっと自分のやることに本腰入れられる!やるぞー!」

というテンションを元に決めていたので、ここへきて9月12日までむすめの幼稚園の休園が決まり(しかも延びる可能性もなきにしもあらずで)、はやくもオーバースペック感が立ち込めております・・。

が、そもそも子育てしながらの仕事って前提条件がコロコロ変わる類のものなので仕方ない。さらに、昨今の状況はそれに拍車をかけているので、さらにさらに仕方ないよね。ってことで、ほどほどに諦めつつ、自分を甘やかしつつ、金曜日のフランス滞在記を再開させるのであります。


さて、前置きが長くなりましたが、バカンス明けの今号はそもそも「滞在記を書く意味」について、今気がついていることを書いてみました。

このフランス滞在記は2020年5月から書き始めて、当初は多分半年ぐらいで書き終わるだろう。くらいに思っていたのですがところがどっこい。

いざ始めてみたらどんどん書きたいことが出てきて、気がついたら途中バカンスを挟みつつ一年をゆうに越えて、まだまだ終わりが見えない。

夫からは「・・え、まだ終わってないの?」と驚かれ、
最近では「今どこまで行った?」と聞かれる始末(笑)。

当時撮りためた写真の整理がてら軽い日記を書こう、ぐらいのテンションで始めたのに、もう一つの大きな回想記と言っても差し支えのないほどのボリュームになりつつある。書き終えたら書籍形式にして保存しておこうか、と思っているぐらいだ。

別に意図して継続しようと思ったこともない。
当時の写真を一つ一つ見ながら、ただただ感情や言葉が出てくるままに書いていたらこうなっていたというわけだ。

いままで後ろを振り返ることもなく、ただただ書き連ねてきたわけなのだけれど、バカンス期間を終えた今、改めて書いてきた文章を振り返ってみた。


そこで気がついたことがある。

それは、

「あぁ、こんなにもたくさん、わたしはフランスに忘れものをしてきたのだな」

ということ。


わたしがフランスに滞在していた期間はたったの半年弱。
「暮らしました」と言うには短く、しかし「旅行しました」と言うにはちょっぴり長い。暮らしと旅の間の微妙な期間だ。

その間、出発時には近年稀に見る大型台風に見舞われ出国が危ぶまれ、やっとフランスに到着したと思ったら大雪で先に現地入りした夫となかなか合流できず、なんとかフランスのアパルトマンに荷物をおろし、ふぅ、これでようやく生活できると思ったら家の中が漏水で水浸し。

楽しみにしていたクリスマスを前に歴史史上最大級といわれるストライキに遭い、それをくぐり抜けながら旅したストラスブールとアメリカ。

帰ってきたらやっと平穏な生活、とも言えず今もなお続くウィルス騒動が始まり、アジア人差別に怯えたり人の温かさに触れたりしながらフランスの寒い冬を過ごし、新婚旅行で訪れた南仏に当時お世話になった人を訪ね、そして最後は国境閉鎖の危機を乗り越えて日本に帰国する・・。

と文字面ではなんとも壮絶で事件続きのフランス滞在だったのだけれど、きっとわたしがこの滞在記で書きたかったのってそこではない。

わたしが書きたかったのは、そういうビッグイベントによって打ち消されてしまいそうな、ささやかな日常や感覚や、身の回りの人、特に家族と交わしたやりとり。そちらの方なのだ。


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写真を見るたびにそれらの、ささやかで、ちいさくて、あたたかな体験がわたしの心をノックしてくる。

「コンコン。わたし、ここにいるよ。忘れないでね」

と。


今ならわかる気がするのだ。

なぜ、さくらももこさんが「ちびまる子ちゃん」という幼い頃のなんの変哲もないいつもの日常を描こうとしたのか。

おもひでぽろぽろで、今を生きるタエ子の前に時折幼い頃のタエ子が出てきて、そこから過去の物語がはじまってしまうのか。

そしてそれがなぜわたしたちの心に刺さるのか。


本人にとって、劇的でドラマチックなライフイベントという「外皮」を一皮ずつ丁寧にむいていくと、そこには「内皮」に包まれたごくごくありふれた日常とそれに紐づいたやわらかな感情体験が待っている。それに触れる時、あぁなんて自分は過去へ多くの「忘れもの」をしてきたのだろうか、と思うのだ。

それが先に書いた、ビッグイベントに打ち消されてしまうような、ささやかで、ちいさくて、あたたかな体験というものだ。それは決して消え失せることなく、むしろ醸造されながら、感情の根底を揺さぶるようなある種の生命力のような輝きを抱えこみながら待っているのだ。

昨今のような、有事の事態が続くと、外皮がどんどん厚くなる。
目まぐるしく進んでいく日常の中で、それぞれが「生き抜く」ことに一生懸命になるので面の皮を厚くして内面のやわらかい世界を守ろうとするのはごくしぜんなことだ。

けれど、ひとたびこのサバイバルモードが落ち着いたら、一枚ずつその外皮を、面の皮をむいて、中にある「忘れもの」を拾っていくのが人としての成長に必要なプロセスだと思っている。

大袈裟にいうならば、文明の成熟にとって必要なプロセスだとも思っている。

いつか、マスクをとって国境をまたいで人が行き来できる日がやってきたら、喉元過ぎればなんとか、な状態になってしまうだろう。

だけどそんな時。
元の世界に戻ろうとするのか、この経験を糧により深い世界を作ろうとするのかは、この有事の背景に密やかに存在する「忘れもの」を拾う力にかかっているのではないか、と思うのだ。

ちょっと大袈裟な話に着地してしまったけれど、そんなわけで自分にできるちいさな営みとして、この滞在記を書いている。

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