見出し画像

106. 忘れ去られたチーズ

bonjour!🇫🇷 毎週金曜日更新のフランス滞在記をお届けします。
今日は、バタバタしながらいよいよ愛着や思い出がつまったグルノーブルの部屋を後にし、リヨン空港へ。しかし、空港へついた瞬間、忘れ物に気がついて…。


2020年3月18日。

朝、鳥のさえずりと静けさを聞きながら、ひとりで街を歩きあちこちに散らばった思い出を回収した。

家に戻ると荷物をパッキングして、日本に持ち帰ることができない荷物や、食材を知人が引き取ってくれる友人の元へ走った。すると、知人たちから帰国組はすでに出ていったよという話を聞き、ようやく自分たちは取り残されているのかもしれないという現実を認識した。人で溢れかえった空港や駅、大量のどうすることもできない棺が体育館のような場所に並んでいる光景を、どこか映画の中の世界のように見ていたけれど、「あぁ、これは現実なんだ。今まさに目の前で起こっていることなんだ」と認識して、背中がぞくっとするとともに、身体の輪郭が急にクリアになっていくような感覚を覚えた。

3月18日

借りていたベビーカーや絵本を返しに、お世話になった日本食料理屋さんへ行って、娘が使っていたおもちゃや子供椅子も引き取ってもらいつつ、在仏日本人同士で情報交換していると、「みんな昨日バタバタと一斉に帰って行きましたよ」と言われてやっとニュースの映像と実際がリンクする。わたし達が住んでいたエリアは日本人が少なくて、現地の人ばかりだったからよくわからなかったのかも。そこにいた在仏日本人の方が言うには、「海外から来ていた人が集まるところや留学生の宿舎からは一斉に人が飛び出して行った」とのこと。(反対にそのまま気づかなくて帰れなくなっちゃった人もいると後々聞きました)。
午後、我が家の余った食材を引き受けてくれるという日本人の方へ食材を届けに。そこで、日本が欧米からの入国規制を始めると知り(えらいことになった…)と焦る。その後、冷や汗をかきながら家を大急ぎで掃除して空港へ。

-当時の日記より一部抜粋-

知人にお礼と別れを告げ、またダッシュで家に戻り、バタバタと掃除をした。特にすごく汚れているというわけでもなかったのだけれど、数ヶ月にわたり愛着を持って住んだ家です。あっちもこっちも、やっている最中にどんどん掃除したい場所が出てきてらちがあかなず、そうこうしているうちに空港へ出発しなくてはならない時間はどんどん迫っていた。けれど、ホコリをはらってからここを後にしないと帰れるような気がしなかった。

少し前までは慣れない形のように思えたが、今やすっかり手に馴染んだフランスの家庭用掃除用具をあっちへこっちへ滑らせながら、「ここはいいかな」「あっちもやんなくちゃ」と走り回る。

「もう行かないと間に合わないよ!」と夫か私かどちらかが叫び、持ち帰る荷物を絞りなんとか押し込んだスーツケース二つをガラガラと引っ張って、少しひんやりとした空気が漂う廊下へ出る。

「お世話になりました」
そう言って、ドアを閉めた時のあの気持ちは、大学生活を送った部屋をたたんで、新しい部屋に引っ越していくあの感じにどこか似ていた。

バスの時間が読めないため、レンタカーでリヨン空港へ向かう。本当は、最終日はパリのホテルに泊まって旅の労をねぎらい合おうと思っていたけれど、ええい、無事に帰れるならこの際もうそれはどうでもいい。わたしは一人、後部座席でスマホ片手に外出許可書を書いていた。急いでいて、まだ用意をしていなかったのだ。途中、警官に呼び止められたらどうしよう…と冷や汗を書きながら、公式のフォーマットにおさめられた全く意味のわからないフランス語をうつしとる。外の景色を見る余裕なんてなかったが、時折顔を上げた時に見える雪化粧したグルノーブルの山に哀愁を覚えた。

次、ここに戻ってくることはあるのだろうか?
それはいつ?

空港近くのレンタカー会社に車を返却し、荷物を下ろすと、夫が「あっっ!!!!」と大きな声を上げた。わたしの身体は凍りついて、今度はなんだ、まだ何かあるのかと恐る恐る夫に状況を尋ねる。

「え、何、何、どうしたの…」
「チーズ…」
「え?」
「チーズ、忘れた」
「・・・・・!!」
「冷蔵庫の中に、チーズ忘れた・・・ショックすぎる・・・凹む・・・」

そう、外出制限が出たその日、夫は娘とともに街にくり出し、近所にある有名なチーズ屋さんに並んで、日本に帰ってから旅の思い出とともに楽しもうとちょっと奮発して美味しいチーズをたくさん買ってきた。が、それを全部、冷蔵庫の中に忘れてしまった、ということだったのだ。


何も思い残すことはない。
一歩一歩、愛おしむかのように、街に別れの挨拶をした。
荷物はきちんとこの2つのスーツケースにおさまって、
部屋だって、すっかり綺麗になった。

と、晴々とした気持ちでグルノーブルを離れたと思ったのだけれど、きちんと置き土産をしてきたみたいだ。

「しょうがないね、置き土産だ」
夫の肩をポンと叩き、いつも子供用の食器を用意してくれたり、チョコレートを置いておいてくれた優しい部屋のオーナーさんご夫婦が美味しいワインとともに楽しんでくれるのを想像してみた。

でも、悔しいな。
全部終わったら、とびっきり美味しいチーズを食べに帰ってきてやる。

生きていく場、暮らしの場、すべてがアトリエになりますように。いただいたサポートはアトリエ運営費として大事に活用させていただきます!