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ネガティブ享楽主義のすゝめ

こんばんは、タチバナです。

今日は人によっては一生思い悩むことになるのかもしれない命題、なんで生きるのだろう、人生の意味って?みたいなことに、成人を六日後に控えた若造のここ最近の考えをここに表明しておこうと思います。自分の思考の記録としての意味も兼ねてね。


なんというか、おそらく志願したわけでもなく、自分たちって気づいたらこの世に産み落とされて、人間社会の中で他者と関わりながら強制的にそこのルールに則って、好きでもない労働をして、でも最終的にその甲斐が報われるわけでもなく、死というものによって無に帰す運命にあるという、かなり理不尽な状態にいると思うんです。これはかなり悲観的なとらえ方かもしれませんけどね。

ところで、世の中には無意識に人の価値を序列づけるような風習ってあると思うんです。例えば、社長でお金をたくさん持っているとか、美人であるとか、偏差値が高いとか。身近な例はこれくらいですが、中には政治の実権を握って世の中を豊かにした人とかっていうのがいて、そういう人は”偉人”として教科書に乗ったりして称えられる。こういった人たちは一般的には価値があると思われています。

しかし、よく考えてみてください。基本的に、こういったことは、ほかの人間がなかなか成しえないこと、ほかの多くの人間のためになることをしたことによって価値とみなされていると思うんです。でも、とんでもなくマクロな視点から考えてみると、その人が助けた人々もいつかは死に、人類もいつか滅亡し、さらに途方もない時間がたてば地球、宇宙もろとも崩壊してしまうといわれています。

ここまで達観した視点から見てみると、果たして他人のためになることとか、他人に成しえないことをすることにどれだけの価値があるのでしょうか??



また、同時に論じておきたいのが、自分の人生についてです。私たちは無から生まれ、人として生きている間、喜怒哀楽を感じながら生きていくわけです。それができる期間は平均して80年くらいで、なんなら私がこうしてキーボードをたたいている間に、あるいは皆さんがこの駄文を読んでいる間にも死というものは確実に近づいているのです。しかも、その間に死んでしまう可能性も決してゼロにはならない。

生活してると嫌なことって色々ありますよね。朝起きるのも嫌だし、課題やるのも、バイトに行くのもつらい。でも、そのつらさを感じることが許されている期間も、せいぜい80年前後なわけです。


そう考えると、どうでしょう?上で書いたことと矛盾するようですが、少なくとも私は、ネガティブであろうとも感情が振れているってことに価値を見出せる気がします。


一つ、現状の自分の中での人生のとらえ方は、「盛大な暇つぶし」です。もし、皆さんが「10分間暇つぶしをしてください」と言われたとき、皆さんは何をするでしょうか?おそらく、多くの人は自分が好きなこと、漫画を読んだり、Twitterをしたり、音楽を聴いたりするはずです。中にはそんな中でも勉強をしたりして、傍からはとてもストイックなように見えるかもしれません。ですが、彼らはきっとその動作を楽しんでいたり、あるいはその動作をしている自分が好きでやっていたりするのではないでしょうか。

私は人生もこれと同じだと思っています。10分の動作が私たちの人生にほぼ何の影響も及ぼさないように、私たちの人生ごときが世界をおおきく変えたりすることはまずないでしょう。もしそんなことがあって、人類文明のために大きな貢献できたとしても、残酷なことにいつか宇宙の営みはまるでそれを無かったかのことに消し去ってしまうことでしょう。しかしながら、自分が周りを見る限り、中には人生に関しては思い詰めてしまって苦しんでいる人がいるように感じています。ちっぽけな人間とかいう存在が価値があると思い込んでいるものに縛られて、「〇〇じゃないとダメなんだ!」と思い詰める。そうして、どうしようもなく人生が嫌になったり、最悪自ら命を絶ってしまったり。

私はそんなくだらないものに縛られて、何よりも価値がある人生の時間を絶ってしまうことにとても抵抗を感じます。なにより、生きて苦しんでいること自体に社会的価値以上の価値があるのに。それだったら、社会的に評価されずとも、自分がやってて気持ちいことをやってから死ねばいい。それはパチンコでも酒でも自慰でも何でもいい。それらから快楽を得られるのもつかの間しかないんだから。


私は決して社会的価値ってのを否定しているわけではありません。むしろ、自分は社会的価値をかなり欲しているタイプの人間だと思っています。自分はいつかはポルシェやフェラーリに乗って、広い豪華な家に住んで信頼できる奥さんが欲しいと思っているタイプの人間です。でも、そのために死んだりするほどのものではないと思っているし、そこまでくれば私はすべての責任などを放棄してでも投げ出したり、妥協したりして自分の人生を維持していく方向に動くだろうし、それが正しいのだ、という理屈が上に書いたものです。


じゃあどうして自分はここまで言っておきながら社会的価値にしがみつくのか、ということや、人生の価値と社会的価値との両立をどう説明するのか、というようなことを、後日追って書いてみようかなと思います、、、


それでは本日はここまで。皆さん、おやすみなさい。(入眠の快楽を感じる私)

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