見出し画像

旅する哲学者とは?

デカルトは22歳の時から十年近くにわたって西ヨーロッパ各地を旅して、彼独自の哲学の方法を編み出していった。
『方法序説』の最初の方には、こんなふうに書かれている。

わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機会をとらえて自分に試を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすことだ。

『方法序説』谷川多佳子訳、岩波文庫

それは当時としては画期的というか革新的なものの考え方だったわけだけれど、オランダ・ドイツ・イタリア・フランスなど、西ヨーロッパというごく限られた区域のことだったので、実際にはある種の限界があったことも事実ですね。

ただ、自分が生まれ育ったところで学んだ常識、特に頭だけで学んだ常識とか知識とか高度な学問とかいうものは、実はあまり当てにならないものなんじゃないかっていう疑問に基づく考え方ね、これはとても重要なことで、頭では分かっていても、実際にそういうコギトを保ち続けることは至難の業なんだよね。
実際のところ、彼以後に出てきた多くの哲学者たちが、その根本の「方法」を無視して勝手に(と言ったら言いすぎかもしれないけれども)西洋世界内でしか通用しないような哲学をでっち上げ続けてきた。

その極端な例が、キェルケルゴールからサルトルに至る実存主義っていう教条的な思想だろうね。
面白いことに実存主義者たちは、ドストエフスキーとかカフカとか、ヨーロッパ世界外の作家たちも実は実存主義者なんだと牽強付会することで、スケール問題を誤魔化そうとした。
しかし、それはあくまでも西洋世界の価値観に基づく解釈にすぎず、しかもキリスト教をベースにした進歩主義というか、一種のドグマみたいなものだった。

マルクスなんかもそうだけども、そもそもほとんどの西洋人たちは、ヨーロッパ文化こそが人類の最先端の文化であり、自分たちは世界最高の知性の持ち主であるという確信的な妄想を持っていた。
彼らは、もっともっと広い世界アジアや太平洋世界、あるいは中近東世界などの歴史や文化なんて 全く無視しているというか、よく知りもしなかったわけだよね。だから彼らの考え方には限界があったのはわかる。
だけど、だからと言って、それが人類のあるべき姿だとまで言い出すと、これはもう完全な中二病的な妄想としか言えないんじゃない?

ところが、二十世紀半ばぐらいまでは、その中心人物だったサルトルなんて世界の知識人たちの、特に若いインテリたちのアイドルっていうか神様みたいなもんだった。(知識人というのは実に騙されやすい人種ではあるが。)
彼は小難しくわざとらしい言葉を駆使して、進歩そのものが人類の目的なのだみたいなことを宣伝していたわけだけど、そのベースはやっぱりマルクスの唯物史観だよね。

そういう サルトルの教条主義にズドーン!とでっかい風穴を開けたのが、彼の同級生だったレヴィ=ストロースという文化人類学者&哲学者だった。
実は、彼こそが、まさにデカルトの方法を踏襲した哲学者だったと言えるかもしれない。
彼は子供の頃から日本に非常に興味を持っていた。父親が画家で浮世絵をたくさん持ってて、何かのご褒美に1枚ずつもらえるのがすごい楽しみで嬉しかったって言ってますけど、西洋以外の文化にすごい興味を持っていた。

だからこそ、レヴィ=ストロースは単純に西洋哲学の流れに乗るのではなく、人類というスケールで物事を観察し考察する文化人類学を学び、実際にブラジルでアマゾン川流域に暮らす民族のフィールドワークをしたり、アメリカ先住民に伝わる神話を詳しく研究分析したりした。

おかげで、未開文化、未開民族と言われる人たちが伝えている文化には非常に優れた知恵とか知識とか、自然へのその対処の仕方の、まぁ技みたいなものがあるんだって事実がくっきりと見えてきた。
それはヨーロッパ社会には全くないもので、むしろその自然と共存していくっていう上での大きな大きな知恵だったわけだよ。
ちなみに、明治以前の日本にも、西洋文化にはない「自制の文化」というものがあったんだけど、これはまたいつか別の機会にしたいと思う。

で、レヴィ=ストロースは、サルトルが喧伝している単純な進歩思想っていうのはおかしいんじゃないかと、具体的な例を挙げて批判した。
すると、サルトルは狼狽えて負け犬の遠ボケ的な、しかも超短い捨て台詞みたいな反論しかできなかったものだから、それまで信者であった若い知識人たちからもあっという間に見放されてしまった。

彼はまぁどっちかというと女癖の悪い嘘つきで、しかもあまり見た目も良くない単なる秀才だったので、そういう点でも一気に嫌悪の対象にされてしまったという面はあるんだろうね。
サルトルはエコール・ノルマルでトップだっけ、とにかく大秀才ではあったらしいんだけど、それを鼻にかけていて、秀才は人間としても優れているとか、未開人より文化人の方が優秀で進んでいるだとか、そういう幼稚なコンプレックス構造の持ち主だった。(でも偉大なる知識人であるシモーヌはあっさりとそれに騙された、のかな?)

この「コンプレックス構造」については、長くなるのでまた改めてお話しするとして、コンプレックスというのは別に劣等感だけでなく、優越感もそうなんだよね。表裏一体というか。
早い話が、劣等感のない、あるいは薄い人間は、優越感なんてアホなものは持ってない。つか、持つ必要なんてないし。
そもそもある面で優越してるからといって、そんなもんどこまでも敷衍できるわけじゃないでしょう。

最近、もっともっとお粗末な形ではあるけれども、例えば身体を使って働く人よりも頭を使って働く人は偉いんだみたいなことを人前で言えるコンプレックス人が表舞台にしゃしゃり出て皆さんを楽しませているんだなぁと苦笑させられてしまったので、ちょっとこういう話をしてみました。

この記事が参加している募集

いま始めたいこと

with アドビ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?