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もう一つの個人的大事件:1978年ジェネシスの初来日

 1978年は、EL&PのLove Beachリリースによる一般的イメージのプログレの終焉、邦楽・洋楽ミュージシャン入り乱れての大フュージョンブームの到来、サザンオールスターズのデビューと、けっこう大きなエポックのあった年ではあるのですが、個人的に一番の大事件は、何と言ってもジェネシスの初来日だったのです。

 これまでもたびたび書いているように、ジェネシスというバンドは日本ではまるで人気がなく、洋楽マニアばかり周囲にいた中学・高校時代ですら、ジェネシスを好きだと言う人間は1〜2人しかいなかったし、地方の大学に行ったら、それこそ名前を知ってる人すら見かけないわけで、そんな彼らが来日するなどということは、夢にも思ってもいなかったわけなのです。

 インターネットが当たり前の今なら、海外にライブを見に行くというのも、わりと普通かもしれませんが、当時はそもそも海外旅行というのがまだ相当にハードルが高いものだったのです。大学生だったわたしも「いつか自分が海外旅行に行ける」なんてことは、ほとんどイメージできていなかった時代なのですよ。日本人が普通に海外旅行に出かけるようになるのは、バブル景気に沸いた80年代、それも後半に入ってからだと思うのです。70年代のうちはそんなことすら考えたことも無かったのでした。なのでこの頃は、洋楽ミュージシャンのライブを見るというのは、イコールそのバンドの来日公演を見ることを意味する時代だったのです。

 そんな78年のある日、最初の情報は例によって、音楽雑誌だった思うのです。当時の状況からそれ以外考えられないわけです。恐らく、愛読していた「音楽専科」で目にしたのだと思うのです。…And Then There Were Three (邦題:そして3人が残った)をリリースして、そのワールドツアーの一環としてなんと日本公演がブッキングされたというのです。

 これには舞い上がりました。地方に住んでいても実家は東京ですので、これはライブを見に東京に帰るしかないのです。海外に行くのは夢のまた夢の時代ですが、実家に帰るのは何の抵抗もありません。

 ただ、当時わたしは、ある体育系の同好会に所属しており、週1回例会と称して部室でミーティングがあったのですね。体育会にも所属してないヤワで適当な運動サークルだったわけですが、当時の空気として妙に封建的な体制やしきたりがまだ残っていて、その例会を休むとなると、当時の部長とかに理由を説明して許可を受けないといけないのですね。そんなときに「イギリスのバンドのライブ見に行きます」なんて言おうものなら、後々まで何言われるかわかりません。そういう時代だったのですよ。なので、もうこのときはあっさりウソ吐きました。「親戚の結婚式に出席する」といって、まんまと東京に帰ってきたわけなんです。まあこれほど酷いウソをついたのは、人生これが最初で最後ですが、もう時効ですよね。当時はもう、それほどまでにジェネシスのライブには恋い焦がれていたのですよ。

 こうして帰省する算段ができたのですが、ひとつだけ誤算がありました。ジェネシスなんて人気ないわけだから、チケットはその辺のプレイガイド行けばすぐに手に入るだろうと高をくくっていたのですが、これが大間違いだったのでした。実は、このときプロモーターは、案外がんばってプロモーションをやったのです。ジェネシスはライブ時のライトショーにものすごく凝っていて、このライブを称して「スーパーライトショー」とかやったのですね。中には「スターウォーズを超えた」とかのワケの分からないキャッチコピーもあって、東京の3回公演のチケットがあっというまにSOLD OUTしてしまっていたのです。

 これには参りました。実は実家にいた妹に気楽に電話して、「チケット買って、お願い!」とやって待っていたら、「どのプレイガイド行っても売り切れてる」という連絡をもらって青くなるわけなんです。これは万事休したかと思い、最悪会場前でダフ屋から買う羽目になるのか…と思っていたら、このときの妹の行動力がすごかった。彼女は、なんと招聘元のウドーの事務所に単身乗り込んで3公演分のチケットをゲットしてきてしまうのですよね。まだチケットぴあなどの電話によるチケット購入システムなどができる前のことですから、こういうチケットというのは、街のプレイガイドというところに足を運んで買うものだった時代です。この頃、一定数のチケットは必ずプロモーターは確保しているか、それとも一部では売れ残ったのがプレイガイドから戻ってきて事務所にあったのかはわかりません。(多分後者かなと思うのは、座った席がいずれもあんまり良い席ではなかったので…)

そんなわけで、わたしは無事、1987年11月、新宿厚生年金会館、中野サンプラザで、合計3回のジェネシスのショーを堪能することができたのでした。まさに夢のような時間だったわけです。(妹には今でも感謝してます^^)

1978年12月3日の日本最終公演の映像。日本のテレビで放送されたもの。当初東京では11月27日(新宿厚生年金会館)、28日・29日(中野サンプラザ)の3公演でしたが、ソールドアウトを受けて、12月2日・3日と追加公演が行われたのです。わたしは最初の3日間だけ見ることが出来ました。こんなことなら、最初から武道館あたりブッキングしてればと思うのはわたしだけでしょうかね…。

 こうして、ジェネシスのライブを初体験して、もう有頂天になっていたわけなのです。このツアーから参加したダリル・スターマーというギタリストがこれまたとんでもなく凄い人で、前年のツアーから参加したサポートドラマーのチェスター・トンプソンとともに、ここでジェネシスのライブバンドとしてのスタイルが完成するわけなのですが、これまでライブ盤で聴いていた曲が、また違う次元のライブ曲となっていたりと、本当に凄いライブだったのです。ところが、ひとつだけ不満があったのは、その宣伝されたライトショーだったのです。当時のライブ会場の規模が、彼らが通常ヨーロッパやアメリカでやっていた会場より相当小さなものだったのでしょうね。彼らはこの年のツアーでだけ使った、演出上のある装置を日本まで持ってこなかったのでした。

 1年前のWind & Wuthering(邦題:静寂の嵐)のツアーのとき、彼らはステージの上に、ジャンボジェットの着陸灯として使われる強力なライトを二列にならべて、このようなライティングをしていたのです。そのシーンが77年に発売されたライブアルバムSeconds Out(邦題:眩惑のスーパーライブ)のジャケットに使われています。

 こういう印象的なライティングですが、このライティングはライブのエンディングの Los Endos というインストゥルメンタル曲のハイライトのところで使われるだけなのです。この曲のためだけにこれだけの数のライトを固定して、曲のハイライトの部分でちょっとだけしか点灯しないわけです。ジェネシスは、この他にも例えば Afterglow という曲で、曲名の「夕焼け」を表現するための赤色のライトを大量にセットして、やはりこの曲のエンディングのときだけ点灯するというようなことをやっていたわけですが、これが当時のステージライティングの世界では、あり得ないほどの贅沢なライティングだったのですね。当然当時のライトは、途中で色を変えることができないし、向きも固定されていて、動かないわけですから、赤いライト、白いライト、青いライトなどをそれぞれ固定しておいて、これを切りかえるだけなわけです。動くライトは人間が操作するピンスポットだけという時代だったのです。

 ところが、78年のワールドツアーで、彼らはここに画期的なアイデアを持ち込みます。それは、ステージ上に、モーターで向きを変える鏡(畳2畳分くらいのかなり大きな鏡)を6枚もつるして、ライトの光をここに反射させ、鏡を動かすことで光を動かすということをやったのですね。当然、ライブの事前情報としてこういうとんでもないライティングをやっていると紹介されていたわけで、これがプロモーターの「スターウォーズを超えた」という宣伝文句につながるわけです。

 ところが何と、ジェネシスはこの鏡を日本公演には持ってこなかったのです。雑誌のグラビアやライブの宣伝などで、見たこともない劇的なライティングのステージ写真を見せられて、ものすごく期待していたのですが、これが完全な肩透かしになってしまったというわけなのです。

 ということで、わたしが見た1978年のジェネシス日本公演は、その前年に行われたWind & Wutheringツアー時のライティングとほぼ同じ内容だったのだと思うのですが、まあそれでもこの時代にこれほどのライティングをやったバンドは他にありませんので、十分凄かったのですけどね。特に、Afterglowの夕焼けライティングと、Second Outのジャケットと同じライティングを見ることができて、さらに要所要所でレーザー光線も飛ぶコンサートに、本当に感動したのでした。

 ということで、わたしは、このとき体験できなかった「鏡あり」のジェネシスのライブ映像をずーっと見たいと思っていたのですが、どういうわけか、あれほどステージの記録を動画で残していたジェネシスが、この年のツアーだけはほとんどオフィシャルの記録を残していないのですよね。ひょっとすると、このときの鏡の効果は、彼らにとってあまり満足がいくものでは無かったのかもしれません。今では、世界中のマニアがそれこそ8㎜とか16㎜フィルムで撮影した動画をかき集めて、そこにライブ音声をあわせて作られたこんな動画があるので、当時のライブの雰囲気は追体験できると言えばできるのですが。

Burning Rope 24:40〜 鏡の動きがよく見える瞬間があります
Ripples 34:30〜 間奏のところはレーザー光線が使われるのですが、ほとんど写ってませんね。その後エンディングにかけて、結構鏡が活躍しています。
Lady Lies 1:28:51〜ライティングではありませんが、ステージ上の鏡に映ったトニー・バンクスの姿のアップがあります。客席からキーボードプレーヤーの上からの映像が見えるようになるというのは、当時他には無かったと思います。
CinemaShow 1:40:00〜間奏が終わって曲の後半から長いインストに入るあたりから鏡が動いているのがわかります。
Afterglow 1:49:26〜 鏡の効果で光を動かしながら、得意の「夕焼けライティング」が始まる、まさにコンサートのハイライトです

 もともとジェネシスというバンドは、ピーター・ガブリエルの時代から、かなりステージの演出に凝っていた歴史があります。ピーター・ガブリエルの変なコスチュームとか、また自らがワイヤーで空中に舞ったり、照明ではUVライトを使ったり、マグネシウムの発光器を使うとか、斬新な演出をずいぶんと行っていたわけです。そして、ボーカルがフィル・コリンズに変わったときから、照明の演出に凝る方向が深まっていき、それがジャンボジェットの着陸灯とか鏡となって実現していくわけなのです。

 これは余談ですが、このようなステージの演出についてのこだわりが、後に現在のコンピュータ制御のムービングライトの元祖である、バリライト(VARI☆LITE)の開発につながるわけです。世界最初にバリライトを使ったライブを行ったのはジェネシスなのですが、実はこのライトを開発した会社に出資したのはジェネシスのカンパニーであり、ジェネシスはこのムービングライトの生みの親と言っても良いのです。(このとき一番重要な役割を果たしたのは、メンバーではなくかれらのマネージャーであるトニー・スミスという男ですが)こうして、ジェネシスは、自らが出資した会社が開発した最新型の照明装置をツアーの度に使用して、これを映像化することで宣伝したのです。すると、それを見た他のミュージシャンが同じライトを使うことにより、彼らが株を持つカンパニーが儲かって、ジェネシスは株の配当で儲かるという、普通のロックバンドではあり得ないようなビジネスサイクルを生み出したのです。まあこういうところでも、ちょっと規格外のバンドなのですよね、ジェネシスというのは。日本では人気ありませんが(笑)


【おまけ】

バリライトを使ったジェネシスのステージの映像作品

Three Sides Live (1981)

ジェネシスがはじめてバリライトを使った1981年のABACABツアー時の映像。2:20〜お得意の夕焼けライティング(これもそれまでで最大の規模だと思う)に、3:00から一斉に点灯したステージ上のバリライトがゆっくり動いて客席を舐めるという演出に熱狂する観客の雰囲気がよく分かります。よく見ると、何灯か点灯してないバリライトが見えますが、初期のバリライトは本当にトラブルが多く、大変だったとメンバーは証言しています。それにしても、この時点でバリライトらしい演出パターンのほとんどすべてが使われていることに驚きます。

Genesis Live The MAMA Tour(1984)

続く1984年のMAMAツアーでは、バリライト自体も進化してかなり安定し、灯数もかなり増えました。バリライトによる演出の完成形といってもいいステージだと思います。バリライトの演出を鑑賞するのであれば、この作品がオススメです。

これは珍しい80年代のバリライトのプロモーション映像。5:20頃〜登場するステージライティングのセットは、そのまんま84年のジェネシスのMAMAツアーのセットです。

Live at Wembley Stadium(1986)

1986年のInvisible Touchツアーが、彼らが最も多くのバリライトを使ったステージだと思うのですが、このときはオープンエアのスタジアムでのライブが多くなり、映像的にはちょっと照明効果が減じてしまった感じがします。この後くらいからライブステージでは巨大なビデオスクリーンを併用することが主流となるので、これはムービングライトだけのステージ照明時代最後の記録映像といっていいでしょう。ちなみにこのツアーで、2度めの来日をしてます。このときイギリスのウェンブリー・スタジアムを4日連続でSOLD OUTしたという記録(この記録は翌年マイケル・ジャクソンの5日連続で破られますが)を打ち立てたのですが、日本公演では武道館がせいぜいだったのでした。


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