1978〜79年:人生最大に浮かれた年にフュージョンにまみれる話
以前にも書きましたが、わたしは1978年の4月に第一志望だった地方の国立大学に入学して、親元から離れ一人暮らしをはじめたわけです。高3のときは、模試などのあらゆる指標が浪人は避けられないことを示していて、自分もそう思い込んでいたのでしたが、どういうわけか数学の試験で、これまでの人生最高のパフォーマンスが出てしまい、誰も予想しなかった結果になってしまったのです。そんなわけで、今度は卒業するのに案外苦労するはめになるわけなんですが、入学直後はそんなことまだまったく想像してないですからね。それだけでなく、中高一貫の男子校の環境からいきなり共学の大学に入ったわけです。まあ当時の国立理系なんて女子は1割もいなかったし、わりとビミョーな感じの女性も多かった環境ではありましたが(笑)、それでも思春期にはじめての共学校ですよ(^^) そんなわけで、78年〜79年というのは、人生で一番浮かれてた時期だったわけです。
ただ一つだけカルチャーショックを受けたのは、同年代のほとんどの友人と、音楽の話がまるで合わなかったことなんです。キャンディーズ、山口百恵に、ちょっと音楽好きだと中島みゆきに松山千春、あとはオフコースあたりが、周囲の友人の音楽的関心事であり、洋楽を聞く人間なんて、ほとんど見当たらなかったのでした。たまたまアバが好きだという男がいたので、話したら、ケツがいいの、パツキンがいいのという話に終始するわけで、これはこれで別のカルチャーショックを受けたりしたものなんです(ちなみにこの男は40年後に某一部上場企業の社長に上り詰めてもう一度衝撃を与えてくれましたがw)。まあ、当時の日本の音楽市場の、極めて平均的な消費者がそこにいたわけで、中・高時代に自分がいかに特殊な環境で音楽を聴いていたのかということに改めて気づかされたということなのですね。
そんなわけで、洋楽、とくにわたしが追いかけていたジェネシスなんて、知ってるやつは皆無(かろうじてイエスを知ってるのが一人いたっけ…)なわけで、そのへんはもう地下に潜るような感じでひとりで聴き続けたという状態になったのです。
ところが、そういう中で、この頃流行り始めたフュージョンについては、話のできる友人がそれなりに周囲にいたのですよね。こうしてわたしも、自分の音楽成分の中のフュージョン比率がどんどん高くなっていったというわけです。
大学に入学して、最初に印象的だったのは、なんと言ってもプリズムの2ndアルバムでしたね。
Second Thoughts/Second Move / PRISM 1978
このアルバムは78年3月に発売されているのですが、その頃は引っ越しだの何だので忙しく、プリズムが新作をリリースしたことは全く知らなかったのです。これを初めて聴いたのは、同級生の友人の車のカーステでした。その友人は、大学入学したらいち早く車の免許を取得し、彼の実家のワンボックスカーで、夏頃からよく一緒に遊びに行ったのです。その時のBGMがいつもこのアルバムだったのですよね。まあそういうシチュエーションだったというのもあって、いろいろな意味で猛烈に印象に残ってるんです。
ただ、プリズム自体はこのときシングルヒットを出したわけでもなく、まだまだ一部の人達に人気という感じではあったのですが、そうこうしているうちに、今度はヒットチャートを賑わす大ヒットソングがなんとジャズミュージシャンから生まれるわけです。
カリフォルニア・シャワー / 渡辺貞夫 1978
本当にこの曲の売れ方は凄まじかったです。男性整髪料のCMソングに使われたということもあったのでしょうが、それでもこのとき50歳目前のジャズ界の大御所が、テレビの音楽番組に出まくるほどの大ヒットだったのです。確かこの年に、日本テレビの24時間テレビの第1回放送があるのですが、その枠内で深夜に渡辺貞夫のライブが放送されたのを、友達の下宿で酒飲みながら見たような記憶があります。まあ、それくらい売れたということなのですね。
ただ、このときわたしはカリフォルニア・シャワーのLPは買わなかったのです。このとき買ったのは、前年に発売されたマイ・ディア・ライフの方でした。これは、「渡辺貞夫の最高傑作は、カリフォルニア・シャワーなんかじゃなくて、前作の方だよ」みたいなうんちくを垂れた先輩がいたような記憶があるんですね。あそこまで大ヒットして、それこそテレビやラジオで耳タコ状態になっているとき、そのアルバムを買わずに、別のアルバムを買うというひねくれ者もわたしなのですw
My Dear Life / 渡辺貞夫 1977
ところが、これにドハマリするわけなんですね。今聞いても、カリフォルニア・シャワー、それに続くモーニング・アイランドなどのアルバムに比べても、間違いなく一番好きなアルバムです。これは、ジョージ・ベンソンと同じく、正統派のジャズ・ミュージシャンが、他の音楽要素をミックスすることで生まれた新しい音楽だったと思うのですが、そのジョージ・ベンソンよりずっとずっとわたしには刺さったのですね。そして、このアルバムをきっかけに、今度はジャズミュージシャンのフュージョンをずいぶん聴くようになっていったのでした。
折しも、この78年、79年というのは、こんなアルバムがどんどんとリリースされて、世の中のフュージョンブームが最高潮に盛り上がっていった時代だったわけです。
Sailing Wonder / 増尾好秋 1978
Larry Carlton(邦題:夜の彷徨)/ Larry Carlton 1978
Rainbow Seeker(邦題:虹の楽園) / Joe Sample 1978
Lucky Summer Lady / The Square 1978
そして、79年に入ってもフュージョンの歴史的な名作が次々とリリースされるのです。
Street Life / Crusaders 1979
Carmel(邦題:渚にて)/ Joe Sample 1979
CASIOPEA / CASIOPEA 1979
Native & Son / Native Son 1979
Savanna Hot Line / Native Son 1979
KYLIN / 渡部香津美 1979
JOLLY JIVE / 高中正義 1979
Birdland / Manhattan Transfer 1979
このように、1978年〜79年というのは、日本のミュージシャン、海外のミュージシャンどちらも入り乱れての大フュージョンブームが起きていた年だったのです。まあよりによって、そういう年に大学に入学して一人暮らしを始めたというのも、巡り合わせだと思うのですが、まあ大学時代で一番浮かれていた最初の2年間を一緒に過ごす音楽としては、実に心地よく、わたしの血中プログレ成分はずいぶんと希薄化されてしまったのでした。またちょうどこの頃、街に「貸しレコード屋」という店が急にでき始めて、けっこう最新のフュージョンのアルバムを借りることができたのですね。こういう店は、小さな店が多かったので、プログレなどの品揃えは全く期待できなかったのですが、当時人気を集めていたフュージョンは、わりと揃ってたので、ずいぶん利用したものです。
ただ、個人的にプログレを聴くのを辞めたわけではないのですね。EL&Pは最後に変なアルバム出して解散してしまったけど(笑)、ジェネシスやイエスは、語り合える友達がいなくても、ひとりで一生懸命聴いていたのです。
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