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ストーリー・オブ・ムービングライト

コンピュータ制御のステージ照明の元祖、バリライト(Vari-Lite)開発とジェネシスの物語


はじめに

いまや街のライブハウスにも普通に置いてあるステージ照明であるムービングライト。コンピュータにより制御され、瞬時に色が切りかえられたり、複数台がシンクロして動いたりする、現代のライブには欠かせない照明装置です。このライトの元祖が、アメリカで1980年に開発されたバリライト(Vari-Lite)です。そしてその開発には、イギリスのロックバンドジェネシスが深く関わってきました。いや、「関わった」という程度のコミットではありません。簡単に言えば、ジェネシスこそがバリライト開発のスポンサーだったのです。ここでは、いくつかの資料に記載された内容を中心に、コンピューター制御ライトの元祖バリライトがどのようにして開発されたのかを紹介します。本当にこれは、日本であれば間違いなく「プロジェクトX」に採り上げられるべきストーリーだと思うのです(笑)

ジェネシスというバンド

ジェネシス(Genesis)は、1967年、イギリスの名門パブリックスクールチャーターハウス(Charterhouse)の級友たちで結成された5人組バンドで、68年にレコードデビューしました。彼らはプログレッシブロックというカテゴリのバンドで、初期の頃からボーカルのピーター・ガブリエルを中心として、数多くのライブを行ってきました。この頃のピーター・ガブリエルは、奇抜なコスチュームやパントマイム、また曲間に披露する奇怪なストーリーなど、まあちょっと変わったことをやる70年代のプログレッシブロックバンドのひとつであったわけです。

彼らにはステージ上のパフォーマンスにかなりこだわりを持っており、初期の頃から、ブラックライトと蛍光塗料を使った演出とか、マグネシウムを使ったフラッシュライトなど、ステージ上の衣装だけでなく、ステージのライティングなどの演出を、メンバーが自らアイデアを出して実施していたのでした。

これは実際のライブステージではなく、The Midnight SpecialというアメリカのTV番組出演時のライブですが、蛍光塗料とかを使ってるのは分かると思います。まあ、もともとこんなことやってた人たちなのですよ(笑)

ところが、1976年、フロントマンであったピーター・ガブリエルがバンドを脱退します。後任のボーカルは、グループのドラマーであった、フィル・コリンズでした。これは最初こそ驚きを持って迎えられましたが、ジェネシスは、フィル・コリンズがボーカルを務めてから、だんだんと人気が拡大し、最後は大ヒットを連発する世界的なバンドになったのはご存じの通りです。ところが、このボーカリストの変更にともなって、彼らはそれまでのステージ演出も練り直さなければなりませんでした。フィル・コリンズは、ピーター・ガブリエルのようなかぶり物やコスチューム、メイクアップは継承しなかったのですね。その結果、ステージ上での演出については、それまで以上に照明に重きを置くようになっていったというわけです。

フィル・コリンズ期初期の照明セット

さて、当時の一般的な照明はどのようなものだったのでしょう。この頃のステージ照明は、当然1灯につき1色が当たり前ですし、動かせる照明は、人間が操作するピンスポットだけというものでした。

後にバリライト開発を行った米Showco社のラスティ・ブラッチェ(Rusty Brutsché)はこう語っています。(以下、特に名前のない引用はすべてラスティ・ブラッチェの発言です)

当時の照明の主流はPAR缶(par can)と言われるもので、直径8センチほどのスチール缶の中に車のヘッドライトを突っ込んだものなんだよ。ロックンロールのツアーでは、軽くて安くて簡単、しかもジェルを塗れば色が出るということで、これをよく使ってたね。しかし、赤で満たすには赤を50本、青で満たすには、青を50本使わなきゃならないんだ。ステージがPAR缶でいっぱいになるのは、あっという間だったね。これが2,000個、3,000個と増えていくと、もうステージの上には何も置けない状態になっちゃうんだよ。

Genesis Chapter & Verse

このように、いろいろな色のライトをたくさん固定して、それぞれを切りかえて演出を行うわけですが、フィル・コリンズがボーカリストになったジェネシスは、このライトを多数使った非常に贅沢なライティングのステージを行っていたのでした。

このライブ音源は1977年のサンパウロ公演ということになっていますが、使われている写真は、1976年次、つまりフィル・コリンズが初めてボーカリストとなった年の Trick Of The Tail ツアーにおけるライティングセットだと思います。固定ライトばかりですが、この時点からライトの数は当時の他のバンドに比べて群を抜いて多かったと思います。同時期のクイーンよりも多かったのでは?


そして、この写真は、1977年リリースのライブ盤 Seconds Out(邦題:眩惑のスーパーライブ)のジャケットの写真で、彼らの同年の Wind And Wuthering ツアー時のステージです。このライティングは、ライブのエンディング曲 Los Endos の最中に登場するだけで、それ以外は、76年のライトが踏襲されていたと思います。これだけの数のライトを揃えて、エンディングのハイライトのところでだけ使うとか、とてつもなく贅沢なライティングをしてたのです。


1978年のイノベーション「ステージ上の可動式巨大鏡」

こうしてジェネシスは、ツアーをするたびに人気が拡大するのに伴って、ライティングもグレードアップしていったわけです。ところが「PAR缶」を大量に並べるのは物理的限界があるわけです。さらに、アメリカでのステージには、ある特別な事情もありました。

リチャード・マクファイル:恐ろしいことに、私はどの機材にも触れることができなかった。というのも、会場はすべて労働組合に加盟していたからだ。会場には労働組合の人たちがたくさんいて、私は彼らに指示しなければならなかった。

My Book Of Genesis / Richard Macphail

これは、ピーター・ガブリエル時代のジェネシスが初めてアメリカでライブを行った1972年(まだツアーではなく、スポット的なライブだった)に同行した当時のマネージャー、リチャード・マクファイルの回想です。当時はまだ小規模な会場でのライブだった彼らは、ステージ上の機材のセッティングも、マネージャーが中心になって自分たちで行っていたのですが、アメリカでは、これが組合に縛られており、ユニオン(労働組合)に加入していない人間は、マネージャーですらステージ上の機材にさわることが許されていなかったということなのです。

その後アメリカでツアーを重ねたジェネシスですが、このユニオンに縛られたスタッフの現場の状況には相当不満が蓄積していたようです。そうして、「そんな連中に任せるくらいなら、機械仕掛けにしてでも自分たちでコントロールしたい」という考えがずっと根底にあったということなんですね。そして、彼らは1978年の and then there were three ツアーの際に、新しい照明装置を導入するのです。

トニー・バンクス:5人組でステージに立つと、いつもかなりリッチな演出をすることになったね。でも、いつも不満に思ってることがいくつかあった。ひとつは、頭上の照明が、それが1色しか使えないということ。もうひとつは、インハウスのフォロースポット・オペレーターを使わなければならないことだったんだ。特にアメリカでは、オペレーターの人たちがユニオンに縛られていて、あちこちにふらふらと動いたりして、効果も最悪だった。僕らは、どうしても自分たちでフォロースポットを操作したかったんだよ。そのために考えたのが、ステージの上にスポットを設置して、ステージの上に吊した鏡に光を当てる方法なんだ。これは、フォロースポットの代わりにはならない追加的なものだった。でも鏡が動くので、効果的に光を移動させることができるという利点もあったんだ。

Genesis Chapter & Verse

それは、ステージ上に可動式の鏡をつるして、これを動かすことで光を動かすというものでした。この時代に、こんなことをやったバンドはまさにジェネシスだけでして、いかに彼らが照明の演出にこだわっていたかの証だと思います。

1977年のイノベーションのひとつは、大きなフレームにマイラーフィルムを張って反射面を作り、このミラーをステージ上のリグに取り付けるというものだった。トニー*はベルギーの会社と契約してミラーと電動ジンバルを作り、僕らはトラスとツアー用の他の照明器具を提供した。この鏡にフォロースポットを当て、電動ジンバルを使って鏡をあちこちに傾けてステージにビームを当てたんだ。
*訳注:ジェネシスのマネージャー、トニー・スミスのこと

Genesis Chapter & Verse

この1978年のワールドツアーは、当時バンドの歴史上最大規模のものでした。このとき初めての日本公演が実現するのですが、残念ながら日本の会場が小さすぎたのか、日本にはこの「可動式の鏡」は持ってこずに、PAR缶だけの演出だったのでした。

この1978年のワールドツアーは、あれだけステージの映像を記録していたジェネシスにして、何故かオフィシャル映像が残っていません。これは、この鏡の演出にメンバーがあまり満足してなかったことの表れかもしれません。そのため、このようにファンが撮影した8mmや16mmのソースを元にした作品で断片的に彼らのステージを追体験するしかないのです。この動画では、13:50〜、32:30〜あたりを見ていただくと当時のステージで何が行われていたのかがわかると思います。上の記事にも貼り付けたこちらの動画も必見かと(^^)


Showcoという会社

さて、ジェネシスのライブステージを支えていたのは、Showcoというアメリカの会社でした。この会社は、ジェネシスのピーター・ガブリエル時代の初のアメリカツアー時(1973年)からの付き合いで、彼らのワールドツアーの音響、照明などを一手に引き受けていた会社でした。先ほど紹介したラスティ・ブラッチェ(Rusty Brutsché)は、Showco社の3人の創業者のひとりで、エンジニアだった人なのです。

もともとは、1960年代後半にアメリカのテキサスで、地元のブルースバンドのために作ったサウンドシステムが評判を呼び、たまたまテキサスでライブを行ったスリー・ドッグ・ナイトに見初められて、彼らの全米ツアーの音響を担当したことがきっかけで業容が拡大した会社です。スタートは音響システムの会社でしたが、その後照明も手がけ、ロックアーチストのツアーを支える技術志向の裏方企業として成功していた会社だったのです。

マイク・ラザフォード:トニー(・バンクス)と僕は、音楽面ではしょっちゅう意見の相違があったけど、ビジュアル面では全くそうじゃなかったんだ。フィルはそういうことにあまり興味がなかったので、リハーサルの時はいつも自然に役割分担ができていたよ。毎晩ホテルに戻り、僕とトニーは照明監督のアラン・オーウェンとともに新しいルックを作って、その間フィルは自分の部屋でその日のテープを聴きながらサウンドミックスについてメモをとってたよ。

The Living Years / Mike Rutherford

というわけで、ビジュアル面にこだわっていたのは、主にバンドのキーボードのトニー・バンクスと、ギター&ベースのマイク・ラザフォードだったのです。

トニー・バンクス:もし、どんな色にも変化し、動くことのできる照明があれば、非常に強力なツールになることは明らかだった。それを実現しようとする人たちはいたし、照明メーカーも当然同じことを考えていたよ。でも、僕たちはこれにお金をかけようと思ったんだ。そこで、アメリカで使っていた音響・照明会社のShowco社に相談したんだ。そうしたら、彼らも同じようなことを考えていたんだよ。そして、バリライトが誕生したんだ。

Genesis Chapter & Verse

マイク・ラザフォード:他の照明メーカーにも我々のアイデアを話してみたはずだよ。でも彼らはビジネスをしているため、みんな乗り気じゃ無かった。彼らの反応は「いやいや、それはこうだからできないし、あなたには無理でしょう、ダメですよ」というものだった。しかし、ラスティ・ブラッチェとShowcoは、そのような枠にとらわれない発想ができる人たちだった。主に音響会社であるShowcoがこのアイデアを実現させたことは、偶然ではないと思うよ。

Genesis Chapter & Verse

こうして、ビジュアル面の進化を望んでいたトニー・バンクスとマイク・ラザフォードの思いと、技術的な観点から同じようなことを考えていたスタッフがマッチングしたというわけですね。これが、1980年頃の話です。

そして、Showco側の開発キーマンは、ジム・ボーンホースト(Jim Bornhorst)という照明系ではなく、音響系のエンジニアだったのでした。

液体の染料をプレートの間に挟んで絞り、染料の厚みや色の飽和度を変えるとか、さまざまなアイデアを試したよ。しかし1980年に、オーディオ機器の仕事をしていた、とてもクリエイティブなエンジニアだったジム・ボーンホーストという人に、別の観点で考えられないかと頼んだんだ。工房には、ゼネラル・エレクトリック社が16mmフィルムプロジェクター用に開発した新しいメタルハライドランプ、Marc350を使ったフォロースポットがあってね。これは、フィラメントがなく、2つの電極の間に隙間があるアーク灯で、第二次世界大戦中のサーチライトに使われていた技術を現代風にアレンジしたものなんだ。この新しい電球の画期的な点は、非常に小型で、反射板を内蔵し、効率が非常に高いことだったんだ。つまり、350ワットの小さな電球で、1000ワットのPAR缶と同じ光を出すことができたんだね。でも、すべてのエネルギーが小さな領域に集中するため、電球の前にジェルを置くと蒸発してしまったんだ。

Genesis Chapter & Verse


ブレイクスルーは別の技術から

最初は、なかなか従来の発想から脱することが出来ずに、四苦八苦したようです。特に、熱の問題が大きく、新型の高効率のライトはあっても、この光をジェルに通すと、ジェルが発熱で蒸発してしまう等、様々な問題が起きていたのですね。そして、この問題を解決したのは、ダイクロイックフィルターという全く別の分野で使われていた光学フィルターでした。

ところで、ジム・ボーンホーストは写真家であり、写真機材にも詳しかったんだ。特にダイクロイックフィルターと呼ばれる装置を使用する写真引き伸ばし機には精通していたんだよ。これはジェルとは異なる技術だ。例えば、赤いジェルに白色光を通すと、赤以外の光はすべてジェルに吸収されてしまう。そのため、ジェルは熱を持ち、やがて溶けてしまうんだね。ダイクロイックフィルターは、光を反射させるという別の働きをするんだ。つまり、赤色以外の光を反射するフィルターは、実際に熱を放散するので、多くのエネルギーを得ることができるんだね。ジムは、科学趣味のカタログでこのフィルターをたくさん見つけ、メタルハライドランプの前に置いて遊び始めたんだ。彼は、ダイクロイックフィルターがMarc350バルブの熱を処理できることを発見し、さらに非常に興味深い性質があることを突き止めたんだ。ダイクロイックフィルターを傾けると、通過する光の波長が変わるので、色が変化するんだよ。

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ジムと彼のチームは、4つの異なるカラーフィルターを使い、それぞれをモーターで動かすことでビーム内で回転し、ほぼすべてのカラースペクトルを色調調整できるライトを作ったんだ。これは本当に画期的なことだったよ。

Genesis Chapter & Verse

こうしてひとつのライトの色を様々に変えるというアイデアが実現できる目処がついたのです。そして、ダラスにある Solly's というバーベキュー店で、運命のランチミーティングを迎えるのです。

僕らはそこに座って、色を変えるライトについて興奮して話していたんだけど、マックスソンが突然ひらめいて、こう言ったんだ。「光の色を変えることができるんなら、光を動かすことだってできるんじゃないか?」 僕らは、誰もそんなことは考えてもいなかったので、話を中断してこう言ったよ。「そうだ、動かせばいいんだ」。突然、この自動ライトのアイデアが、ランチの場所でひらめいたんだよ。

Genesis Chapter & Verse

このミーティングが行われていた店の名前までしっかりと書いてあるほどで、やはり忘れられないブレークスルーが起きた場所だったのでしょう。ひとつの難題を解決したエンジニアの技術と、周囲でそれを横目で見てた別のエンジニアの何気ない思いつきである「それが出来るんなら、丸ごと動かしちゃえばいいじゃん」的なノリが合体して、バリライトが誕生したのです。

プロトタイプとジェネシス

こうして開発された全く新しい照明を彼らはジェネシスのマネージャーである、トニー・スミスに提案するわけです。

当時、彼らはアルバムの制作に取り掛かっていたよ。新しいライトの話をしたら、トニーがぜひ見たいと言ってくれたんだ。僕らは、12週間突貫でプロトタイプを作りあげた。ジムと僕は、ソフトウェアエンジニアのブルックス・テイラー(Brooks Taylor)、電源やモーターに詳しい電気技師のジョン・コビントン(John Covington)、そしてトム・ウォルシュ(Tom Walsh
)というチームを結成してね。デジタル電子工学のエンジニアであるトム・ウォルシュは、試作ライトのために16個のキューを記憶できる手作りの1チャンネル・コントローラーを作ったんだ。トニー・スミスに電話して、試作品ができたことを伝えると、ジムと僕はそれをタオルにくるんで普通のスーツケースに入れ、飛行機で運び、The Farmまで車で出かけたんだ。そこはジェネシスがレコーディング・スタジオを建設し、ABACABをレコーディングしていた場所だよ。

Genesis Chapter & Verse

12月中旬の、とてもとても寒い時期だったね。暖房のない納屋にプロトタイプを設置しなければいけなかったんだ。梁は樹齢数百年のオーク材で、鉄のように硬かったので、ライトを取り付ける方法がなくてね。凍えそうな思いをして、ようやくこの梁にストラップやロープで固定することができたよ。最初は気温が低すぎて何もかもが不調だったけど、だんだん暖かくなってくるとちゃんと動くようになった。

Genesis Chapter & Verse

マイク ・ラザフォード: The Farmの古い納屋で初めてバリライトを見せられたよ。当初はツアー用に一回限りのスペシャル・エフェクトを求めていたんだ。僕たちは、ジェルが回る車輪のようなネオン・クラブ・ライトにずっと憧れていたから、Showcoのラスティ・ブラッチェにそれができるライトを探してくれと頼んだんだ。するとある日、彼はプロトタイプを抱えて現れたよ。その1台は爆発しちゃうし、もう1台はぐるぐる回るだけだったような気がするね。でも、色を変えることができる照明の可能性はすぐに見いだすことができたね。

Genesis Chapter & Verse

こうしてABACABをレコーディング中の彼らのスタジオ、The Farmの納屋でお披露目された新ライティングシステムは、まだ相当に不完全な出来ながら、マネージャーのトニー・スミスだけでなく、バンドのメンバーにも、そのポテンシャルはよく理解できたのでした。

トニーとバンドに来てもらって実演して、家に戻って暖炉の横に座って、(マネージャーの)トニーとその場で取引したんだ。必要な資金は、50台で50万ドルくらいという金額を伝えたよ。当時としては大金だった。すると、彼は言ったんだ。「これをやるなら、投資したい」とね。そこで僕らは、パートナーシップを組むことに同意したんだ。僕は、Showcoとは別の組織をつくらなければならないこと、そして、その製品の名前が必要だと言ったら、トニーは言ったんだ。「バリライト(Vari-Lite)という名前にしたらどうだ」ってね。

Genesis Chapter & Verse

僕らは取引をして、彼は50万ドルくれたんだよ。それまでの人生で見たこともない大金だったよ。しかも契約書もなしにだよ。そんなことしてる時間がなかったからね。

The Genesis of Vari-Lite

バリライト開発の歴史で特筆すべきは、ジェネシスのマネージャーであったトニー・スミスの、このときの対応なのだと思います。彼は、この新システムをジェネシスの次のツアーの照明として採用すると決定し、ネーミングを考えただけでなく、さらにその会社に出資して、一緒にビジネスがしたいと申し出たのですね。Showcoの創業者でもあるラスティ・ブラッチェは、恐らくそこまでのリスクを単独で負うのは難しいと考えていたのでしょう。そこに、トニー・スミスからの「出資したい」という申し出で、開発が前進することになるのです。そして、Showcoとは別に、Vari-Lite Internationalという会社が設立され、ラスティ・ブラッチェが初代社長になるわけです。

そしてバリライトの開発

ジェネシス側のトニー・スミスが、ポンと50万ドル出資するほど、このプロトタイプは魅力的に見えたのでしょう。ところが、このときのライトには、まだ技術的な問題点があり、実際に開発されたものは別物だったのです。

そのロンドンでのミーティングからダラスに戻る飛行機の中の出来事を今でも鮮明に思い出すよ。機内でおしゃべりをしていると、ジム・ボーンホーストが飲み物とカシューナッツを食べながら、さりげなく僕を見て言ったんだ。「あれじゃうまく行かないのは分かってるだろ。ツアーのライトは何か違うものを考えないといけないよね」と。僕は彼を見て「マジか?」と言った。その瞬間トニー・スミスからもらったお金と僕らがこの照明を作るという約束のことが頭をよぎったさ。

しかしジムは正しかった。彼はこの照明器具を、ダイクロイックフィルターを回転させるデザインのウォッシュライトから、カラーホイールを備えたスポットライトに変えたんだ。これが最初のバリライト(VL1)のデザインの基礎となったんだ。

The Genesis of Vari-Lite

ところが、このプロトタイプのデモの時点でも、開発者にとってすら、バリライトの視覚効果の本当の凄さは、まだ想像もできていなかったのです。

ジェネシスのために最初の50灯の開発をはじめたとき、僕たちはまだ、これを、トラスに登らなくても遠隔で焦点を合わせられる再配置可能なライトとしてしか考えてなかったんだ。ライトが動くことによる効果は予測できてなかったんだ。あるとき工房で、トム・リトレルがつまみを回すと、トラス上の50個のライトが一斉に動いたんだ。このときあんな効果がおきるとは誰も予想してなかった。僕らはみんな衝撃を受けたんだ。「ワオ、見てみろ!」と思った。こんなことが起こるなんて、僕らの脳裏にもまったく浮かんでなかったんだ。

The Genesis of Vari-Lite

バリライトは当初、瞬時に色が変えられる可動式のライトという発想で開発されたわけですが、やはりここに、コンピュータを使って、複数台を一度にコントロールするという発想が付け加わったことが画期的なことだったのです。そしてShowcoにはそれができるコンピューターエンジニアが在籍していたのです。

Vari-Liteコントロール・システムを設計したのはトム・ウォルシュだ。1979年にビージーズのツアー・ステージ用に開発したディスコ・ダンスフロアのコントローラーから派生したコンピューター・システムなんだ。トムはある種のマイクロプロセッサーに精通していてね。最初のVari-Liteシステムのデザインを考えたとき、彼は同じプロセッサを使ったんだ。

The Genesis of Vari-Lite

ハードウェアを設計したトム・ウォルシュの他に、ソフトウェアを担当したのは、ブルックス・テイラーでした。

ブルックスはアセンブリ言語でプログラムを書いた。当時、まだ高級言語は開発されていなかったからね。あの頃はマイクロプロセッサの初期段階だったんだ。だからトム・ウォルシュは、小さな8ビットのRCAマイクロプロセッサーを中心にコンピューター・システムを開発した。しかし彼は、ブルックスの書いたコードをアセンブリ言語で受け取り、それをこれらのプロセッサ用の機械語に翻訳する開発用システムも構築しなければならなかったんだ。5つのプロセッサは共有メモリで並列に動作し、それぞれが独自のオペレーティング・システムを持ち、それらがすべて連動しなければならない。ブルックスはこのすべてを頭の中で理解し、コードを作成しなければならなかった。

彼は、紙テープを吐き出すテレタイプマシンにアセンブリ言語でコードを打ち込んだ。ウォルシュのコンピューターはIMSCI8080の8ビット・プロセッサーをベースにしていて、このテープを読んでアセンブリ言語からマシン・コードに変更し、それをEPROM(消去可能なプログラマブル読み出し専用メモリー)にロードして、このプロセッサーに送り込んだんだ。

つまり、この2人の頭脳が一緒に働くというのは、デジタルに疎かった私にとっては、とんでもない奇跡だったんだ。実際、コンソールは照明よりもはるかに信頼性が高かった。

The Genesis of Vari-Lite

その最初のコンソールは、今日の基準からすると信じられないほど初歩的なものだったけど、今日でもムービングライトで行われているようなことを最初にやったものだ。ブルックス・テイラーが思いついたことは、現在でもコンソールでまったく同じように行われているよ。

The Genesis of Vari-Lite

僕はトム・ウォルシュをバリライト界のウォズニアックだと思ってるよ。彼は学位や正式な訓練を受けたエンジニアではなく、インディアナ大学で学んでいたヴァイオリニストでね、世界最高のヴァイオリニストにはなれないと判断して、演奏をやめた人なんだ。父親がエンジニアだったので、父親からいくつかのことを学んだとはいえ、彼は独学の天才なんだ。

トム・ウォルシュとブルックス・テイラーがの2人が知られざるヒーローだね。彼らがこのコントロールシステムを機能させ、照明に動きを与え、すべての振り付けを可能にしたのだからね。

The Genesis of Vari-Lite

こうして、何もかも1から開発していたわけですが、この段階でジェネシスの次のツアーまでに残された時間はわずか6か月しかなかったのです。たった6か月でこれをすべて完成させるとは、どれほどクリティカルなことだったのでしょう。

ラスティ・ブラッチェ:それからツアーまで6カ月しかなかったんだ。半年間で50個の照明とコントローラーをゼロから作るので、めちゃくちゃ働いたよ。1日15時間から20時間、1週間に7日働いた。でも、全部揃えたんだ。

Genesis Chapter & Verse


1981年9月27日 バルセロナ

そして完成した50灯のバリライトは、ジェネシスのABACABツアーの初日、紙テープでプログラムを読み込んで、バルセロナの闘牛場のコンサート会場で初めて使用されるのです。

最初のライブは1981年9月27日、バルセロナの闘牛場で、床が土で埃が多く、光を反射するのに適した環境だったね。照明が点灯すると、それは本当に驚くべきもので、そこからこの照明の噂はロケットのように業界を駆け巡ったんだ。

Genesis Chapter & Verse

鮮明に覚えているよ。満員で、埃っぽくて、臭くて、暑かった。ブルックス・テイラー、トム・リトレル、アラン・オーウェンと一緒にコンソールの前に立っていたのを覚えている。トムとアランが初めてバリライトを披露したのは、セットが始まって2、3曲目の Dodo のときだった。曲のクレッシェンドで、後ろのトラスにあるすべての照明が、客席に向かって一色のビームを放ったんだ。会場がどよめき、みんなが飛び跳ねた。「すげーぞ、これは本当に何かあるぞ!」と思ったのを覚えているよ。

The Genesis of Vari-Lite

Dodo

ジェネシスのABACABの公式記録であるThree Sides Liveの動画です。これは初日のバルセロナの映像ではないと思いますが、この曲で初めてバリライトが点灯したのですね。(この動画がCompleteと題されているのは、実際の公式記録ではこの曲が一部カットされているところを別動画で補完してるためです)

ちなみにこのとき製造したのはスペアを含めて55灯だったのですが、実際にショーのステージ上に配置されたのは44灯だったそうです。

結局、リグで使ったのは44灯だけで、10灯をスペアとして使い、最後の1灯は犠牲となって、部品のためにバラバラにされた。

The Genesis of Vari-Lite


ただ、そこは突貫で開発した初めてのシステムです。ツアー中はかなりのトラブルに見舞われたそうです。

マイク・ラザフォード:最初の数回のコンサートでは、大失敗だったね。照明が何度も爆発したんだよ。でも、あの時代にはなかなかない、真に新しいスタイルで、エキサイティングだったよ。これは動く照明で、文字通り革命だったんだ。

Genesis Chapter & Verse

マイク・ラザフォード:ABACABツアーの間中、頭上のトラスを行ったり来たりして、異常な状態にある照明に対処しているクルーの姿に気づいてたよ。エンジニアはプラグを抜くか、ハンマーでぶったたいてたね。どちらの方法でも同じようにうまく行くことがあるのが、面白かったね。

The Living Years / Mike Rutherford

トニー・バンクス: プロトタイプのバリライトをツアーに持って出たんだけど、照明の数と同じくらいエンジニアがいたよ。毎回、公演が終わる頃には10台も動いていればいいほうで、常に解体して組み立て直していた。でも、ツアーが進むにつれて、どんどん信頼性が高まっていったんだ。

Genesis Chapter & Verse

こうして、彼らは出来たばかりの新型照明を携えて、ワールドツアーを乗り切るわけです。しかし、このときはツアーに同行するローディーやエンジニアたちとっては、本当に大変な仕事だったわけです。それにしても、こんなツアーをやったロックバンドなんて、後にも先にもジェネシスしかなかったのではないかと思います。

1981年のときは、ほとんどのコンサート・ツアー関係者はすでに、良く言われるイヌみたいに働くローディーをはるかに超えてたよ。バスの中で寝泊まりし、5台から10台のトラックに機材を満載して朝6時にアリーナに乗り込み、夜の6時半までにすべてを機能させ、1日16時間労働をこなすという、チャレンジングなことさ。才能があり、技術的に訓練され、献身的な人々が、毎日ショーを立ち上げ、成功させるために必要だったんだ。

The Genesis of Vari-Lite


そしてコンサート照明のスタンダードに

こうして実用化されたバリライトは、バンドメンバーのトニー・バンクスをして、「俺らの音楽が嫌いなら耳栓して照明だけ見に来い」と言わせるほどのものだったのでした。この照明効果は劇的であり、世界中の照明関係者に衝撃を与えたのです。

トニー・バンクス:だから、照明を一斉に動かして、ある瞬間は全部赤で、ある瞬間は同じ照明が全部緑になるというような、すごい演出ができるんだ。また、これらの照明にスモークを少し通すと、夢のような美しい効果が得られてね、Afterglow のような曲にはとてもよく合ったんだ。
時には、本当に素晴らしいエフェクトを取り入れることもあったね。でも、それを使うのはショーの中で一度だけだよ。「これだけ照明があるのに、何で使わないのか」と言われたこともあるけど、ショーの4分の3まで効果を抑えて、誰も見たことのないようなことが突然起これば、それは視覚的にとてもパワフルなことなんだ。「音楽が嫌いでも、耳栓をして照明を見に来いよ」と、よく言ってたよ。

Genesis Chapter & Verse

ツアー中、噂が広まるにつれ、毎晩のように照明デザイナーが照明を見に来るようになった。ツアーの日程は、照明関係者の目的地となった。

The Genesis of Vari-Lite

その衝撃は、まるで世界中で鳴り響いた銃声のようだったね。僕のところにもたくさん電話がかかってきて、大騒ぎになった。でも一部には、これは一瞬の出来事で、そのときだけだと考える人もいた。「いいんだけどね、でも長続きはしないよ 」って。

The Genesis of Vari-Lite

コンマ1秒の速さでシステム内のどの色でも表示できるんだ。人間の目で見分けられない速さなんだ。一瞬ですべての照明の色が変わるというのは、実は最も驚異的な効果の一つだったんだ。単純なことのように聞こえるが、そのインパクトはとてつもなく大きかった。

The Genesis of Vari-Lite

どの時代にも、どの分野にも、革命的なモノを見ても、「ダメだよ、あんなのは」と腐す輩はいるものです。でも、この新型照明はあっという間に業界のトップクラスの人たちが採用しはじめるのでした。

僕は、他のアーティストにこのシステムを使ってもらうために働かなければならなかった。最初の照明デザイナーの一人は、ダイアナ・ロスのアレン・ブラントンだった。もう一人はZZトップだった。

The Genesis of Vari-Lite

マイク・ラザフォード:でも、問題が解決されるにつれ、他のバンドも僕らが業界標準を打ち立てていることに気付き始めたんだよ。Vari-Liteのライティングは業界に革命を起こしたんだ。そして、これは市販されていなかったので、僕らからレンタルするしかなかったんだよ。80年代初頭には、ストーンズがワールドツアーでVari-Liteを使用したね。ジェネシス宛ての小切手が、歯ぎしりしながらたくさん書かれたんじゃないかな。

The Living Years / Mike Rutherford

ラザフォードは、「ジェネシスあての小切手」と言ってますが、正確にはVari-LIte International社宛ての小切手ですよね。ジェネシスは株主ですから、出資した会社が儲かった後に、株式配当で儲かるという仕組みだったと思います。


バリライトのその後

そして、ジェネシスはツアーのたびに、このバリライトの灯数を増やし、洗練させていくのです。実は、1981年のABACABツアーは、1982年まで継続するのですが、82年になってから、さらにバリライトの灯数を増やしたりしているのです。

82年のジェネシス・ツアーでは150台以上のバリライト(VL1)を使ったし、83年のツアーでは本当に大きなリグを使った。

The Genesis of Vari-Lite

バリライトを初めて使ったのが1981年9月27日からスタートしたABACABツアーなのですが、彼らは、同じツアーの中ですら相当なバージョンアップを行ったのです。翌82年の時点で、ジェネシスのステージで使われたバリライトは、一気に3倍に増えているのです。普通こんなことするでしょうか。開発したばかりのバリライトを、さらに追加製造して、わずか半年かそこらの間に、ここまで数を増やしているのです。

そして、勢いは止まりません。1983年、ジェネシスは次のアルバム Genesis のリリースに合わせたMamaツアーを開始します。このときは、何と300台ものバリライトが使われることになったわけです。

83年のツアーでは、300台近いバリライト(VL1)フィクスチャーを使った大きな六角形のリグを作ったね。

The Genesis of Vari-Lite

これはジェネシスの83年のツアーに併せて制作されたバリライトのプロモーション動画です。上でコメントされている「六角形のリグ」がどんなものだったかがよく分かると思います。これはこのときのジェネシスのツアーセットそのものだったのです。

そして、ジェネシスのマネージャーのトニー・スミスは、その後もバリライトの開発の資金援助(要するにVari-Lite International社への増資)をしながら、バリライト中心のジェネシスのライブを行い、さらにそれを映像作品にして世に出すということをやったわけなのです。

トニー・スミスは素晴らしいパートナーだった。彼は、私たちが成長するにつれ、会社に多くの資金を投入してくれたよ。ジェネシスはそれを誇りに思っていただけでなく、その後10年間、Vari-Liteを中心にショーを作ってくれたんだ。

The Genesis of Vari-Lite

ジェネシスはムービングライトのパイオニアであり、彼らのツアーはその技術の実験場となったんだ。そして、ツアーごとに僕らは技術を追加し、改善し、発展させてきたんだ。

Genesis Chapter & Verse

こうしてバリライトは一気に業界標準の地位を確固たるものにして、ワールドワイドにビジネスを展開するに至ったわけです。

その後、国際的な事業展開を始めることができた。1983年から1984年にかけて、オーストラリア、ロンドン、そして日本に事務所を開設した。バリライトのおかげで、あっという間に国際的な企業になることができたんだ。1980年代の終わりには、業界最大のレンタル会社となり、世界中に拠点を持つ唯一の会社となった。それはすべてVari-Liteの技術とそれが提供するもののおかげだった。

The Genesis of Vari-Lite

しかし、こうして1980年代にゼロから一気に業界スタンダードを樹立したVari-Lite International社であるのですが、その後90年代には他の照明メーカー等との競争の結果、バリライトは、Genlyte Thomas Group LLC社に売却されるのです。その後、ラスティ・ブラッチェは、レンタル事業のみを継続するのですが、その権利も2004年にPRG社に売却されます。このようにして、バリライトのビジネスは、2社に引き継がれ、現在に至っているのです。今商標としてのVari-Liteをあまり聞かなくなってしまった背景には、このようなビジネス事情があるのです。


おわりに

こうしてみると、バリライトとは、ジェネシスのために開発され、そしてジェネシスとともに業界標準となり、90年代にジェネシスが活動を停止するとともに、ライバルとの関係が厳しくなっていくという、まさにジェネシスとともに栄枯盛衰を経験した会社であったのです。恐らくほとんどの株式をジェネシスが保有していたわけで、それも致し方ない事なのかもしれません。

わたしも、以前から「ジェネシスのために開発されたバリライト」という事くらいは知っていたのですが、いろいろ資料を読むうちに、ずいぶん面白いストーリーであることを知り、日本語の記事にまとめてみようと思い立ったわけです。ずいぶん長くなってしまいましたが、今ではテレビの歌番組でも必ず使われているムービングライトとは、このような経緯で開発されたのだということが少しでも広まればと思います。ほら、皆さんの脳裏にこの曲が流れてきてませんか?(笑)



参考資料

本記事内の引用文はすべて上記の書籍とWebページより引用しました。日本語訳はすべて筆者によるものです。


ジェネシスの映像作品

ABACABツアー(1982年)

世界初のムービングライトが使われたライブの映像記録です。こちらはBlu-ray版も入手可能です。通して見ると、この時点で、今もよく見るムービングライトの演出パターンのかなりのものがすでに使われているのがよくわかると思います。また、エンジニアの手元で動く楽屋でのバリライト(VL1)のアップ映像も見ることができます。この動画のステージは1981年11月の映像なので、まだバリライトが150灯に増量される前のものだと思います。

Mamaツアー(1984年)

ジェネシスが、300灯ものバリライトを使ったステージの映像記録であり、バリライトの威力を業界に印象づけた作品です。この段階で、バリライトの機能と演出パターンはほぼすべて完成の域に達したと思います。バリライトの到達点を確認するのに最適の映像作品なのですが、この映像作品は現在DVDが絶版らしく、Amazonなどでも現在ほとんど流通していません。なので、YouTubeで確認してください。

Invisible Touchツアー(1986年)

上記資料内に、このツアー時のバリライト灯数が確認できなかったのですが、恐らくジェネシスの歴史上最大数、300灯以上のバリライトが使われたステージと思います。ただ、このときは人気の絶頂期で屋外スタジアムでのライブとなっており、映像上の照明効果はかなり減じてしまっています。ジェネシスとしても、照明を100%バリライトで行った最後のステージです。

We Can't Dance ツアー(1992年)

フィル・コリンズ在籍時最後のアルバムWe Can't Danceリリースに併せて行ったワールドツアーの映像作品です。この時点ではもうムービングライトだけではなく、大型スクリーンも加えることが普通となっていて、ジェネシスもそのようなセットが使われています。またこの時点から他社のムービングライトも使うようになっているようです(斜めにステージ上を移動するライトはフランス製と聞いたことがあります)。このときは、ライブを全世界で衛星生中継するというイベントがあり、YouTubeを探すと、そのときのライブ映像も確認できると思います。

Turn It On Again ツアー(2007年)

2007年にフィル・コリンズが復帰して行われた再結成ツアーの映像記録です。ローマに50万人(公称)を集めて行われたライブの記録です。ムービングライトより、ステージ後方を埋め尽くす巨大スクリーンの方がメインとなっており、ムービングライトマニアにはちょっと物足りない感じと、映像のディレクションが以前の映像作品よりかなり下手くそになった印象が拭えません。

The Last Domino? ツアー(2022年)

体調の悪いフィル・コリンズが再度復帰して行われたジェネシスの最後のツアーの記録です。このライブを最後にジェネシスは正式に活動を停止しましたので、まさに最後の映像作品なのですが、フィル・コリンズの加齢と不調ぶりが目立ってしまい、マニア以外にはオススメできない作品です。ステージの映像とライティングのシンクロとしては、相変わらず良い仕事してるんですが…


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