「無窮」
「ユンボギの日記」
李潤福・太平出版社
空に向かってムクゲの花が開いている。白に桃色、八重に一重。夏から秋まで次々咲き続けるから、韓国ではこの花を無窮花「ムグンファ」と呼ぶ。ムクゲはムグンファが訛ったものだろうか。無窮――良いものなら無窮なれ。だが、それが良くないものなら、断ち切っていかねばならない。
家族で韓国を訪ねたのも、無窮花の咲く頃だった。安東(アンドン)市近郊の河回(ハフェ)村で、重要無形文化財の仮面劇を見るのが主目的だった。だが、通訳の権(クォン)さんと言葉を交わすうち、隣国を再発見する旅にもなった。
軍事境界線の光景は、とりわけ強く心に焼きついた。鉄条網の前には、若い兵士が鉄砲を肩に軍服を着て立っていた。その顔つきは厳しく大人びていて、同じ年頃の息子が幼く見えたほどだ。息子だけではない、日本の若者たちの顔を思い浮かべ、死と向き合うことで、人の顔はこんなにも違ってくるのかと思った。イムジン河は滔々と流れ、対岸に北朝鮮の家々が見えた。すぐそこに見えるのに行けない場所。簡単には越せない境界線。生き別れになった人々の涙が河になったかと思うほど、やるせない眺めだった。
権さんもタクシーの運転手さんも、河回村を訪れるのも初めてなら、仮面劇も初めてとのこと、道中、期待は高まった。仮面劇は、村の中心にある円形広場で演じられた。最初はいちいち通訳してくれた権さんだが、そのうち通訳を忘れて夢中で見ている。だが、私たちもその方がよかった。言葉はわからなくても、内容はわかったからだ。牛飼いの男が、牛の睾丸を切り落とし、「精がつくから誰か買わんかね」と観客に向かって問いかける場面があった。「オルマイヨ(いくらなの?)」とすかさず尋ね返したのが小さな男の子だったので、観客は大爆笑だった。河回村には昔の家並みがそのまま残っている。黄色い土塀。干した赤唐辛子。キムチ壷。畑のまくわ瓜。餌を探す放し飼いの鶏。まるで、韓国の昔話の中に迷い込んだようだった。
旅の終わり、家族のように親しくなった権さんに、思い切って尋ねてみた。「年配者には日本人を恨んでいる人が多いと聞くけど、あなたはどう?」「好きではないわ。仕事だからこうして付き合っているけれど」。あまりにきっぱりした答えで、かえってわだかまりが残らなかった。日本では伊藤博文の暗殺者でしかない安重根が、韓国では銅像が立つほどの英雄だ。そして日本の終戦記念日は、韓国の独立記念日にあたる。短い旅の中で、境界線とは人の心の中に作られるものなのだとはっきりと悟った。河は渡れるし、山も踏み越えて行ける。人の心に作られた境界線は、見えない分、相当に手ごわい。
「ユンボギの日記」に涙したのは、中学生の時だった。物乞いやガム売りで家族を支える十歳の少年の日記を、私は現実として受け取れず、切なく気高い物語として読んだ。日記の背景にある戦争の傷跡や民族の歴史の裏の裏にまで思いを馳せる事はできなかった。久しぶりにこの本を読み返し、歳月と歴史の荒波をざっぷりと頭からかぶったような気分になった。親に捨てられ物乞いをする少年ユンボギが歪まなかったのは、学ぶことを止めるなと励ます大人がそばにいたからだ。どん底の暮らしをしながら、更に気の毒な老人にお金を恵むユンボギ。自分より弱い者を虐げるのではなく、弱者に手を差し伸べるユンボギの心を誰もが持っていたなら、すべての境界線は消えてなくなるだろう。
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