【連載小説】怒らない恋人/第一章:3
莉奈の「ランチにでも行こう」発言は社交辞令だと思っていたし、そうあってくれと願ってもいた。だけど、莉奈は飲み会が終わった数日後、実際に私をランチに誘ってきた。正直言って断りたかったけれど、莉奈が私をランチに誘ったことは大輝にもばっちり伝わっていて、まだ返事もしていないのに「莉奈とランチに行くんだって? 」と、嬉しそうに笑っている大輝を見ていると私の心はいとも簡単に折れてしまい、断れるはずもなかった。
そんなわけで私は、貴重な休日に何度も莉菜のランチに付き合わされる羽目になっている。本当は休みの日は大輝と会いたい。だけど、土日が休みの私と、土日祝日も関係なしに働いている大輝とでは休みがなかなか合わないのだ。莉奈は病院の受付事務をしていて、日曜は休みが簡単に取れるらしい。私にとっては残念なことに。
私だって、「会ってみたら莉奈は意外といい子だったから安心した! 仲良くできそう!」っていうオチを望んでいたし、そっちの方が良かった。というか、その結果以外は受け入れる覚悟ができていなくて、莉奈が嫌な女だった場合の対処法をまったく考えていなかった。嫌な女かもしれないと予想はしたものの、実際に会ってみたら想像を越えてくる嫌な女だったというオチが待ち受けているなんて思わないじゃないか。本日のオススメとしてメニューに載っている「季節の彩りフェットチーネ」を注文したけれど、フェットチーネってなんだろう? たまに聞く名称だけれど調べたことはない。パスタなのか? 調べてみようと思いつつ、食べ終わる頃にはいつも忘れているから、私はフェットチーネの正体がずっとわからない。対面に座っている莉奈はシンプルにナポリタンを注文していたから、私はオシャレぶってフェットチーネなんか注文したことを後悔した。私もナポリタンが良かったな。
「このカフェ、潤也くんとの初デートの場所なんだよ」
注文を取りにきた店員が去ったあとで莉奈が自慢げに言った。喫茶店とカフェの中間みたいな内装の店内は、オシャレだけれどこだわり強そう。とても気難しい店長が経営しているのかも。フェットチーネの正体すら知らない無知な私が来店していることに呆れて、店長やスタッフが裏で舌打ちしてたらどうしよう。
私がそんな被害妄想に取り憑かれている間にも、莉奈の話は止まらない。
「潤也くんが私のために頑張って初デートの場所を選んでくれたの。でも、フェットチーネってなんだろう? ってこっそり呟いてたの聞いちゃった。あの時の潤也くん、今思い出してもすごくかわいい! 」
意外なことに、ランチの席で莉奈が私に話す内容は、ほとんどが潤也の惚気だ。潤也がいかに完璧な理想の男か、どれだけ潤也に大切にされているか、莉奈は私に延々と話す。今日も例外ではないらしい。私は莉奈の話を邪魔しない程度に相槌を打つ。「そうなんだ、素敵だね」。
「由依ちゃんも惚気けていいのに」
莉奈は私に向かって、何度もそう言った。おそらく莉奈は、私と一緒に惚気大会をしたいのだ。そういうことであれば、私もそれなりに楽しもうと気持ちを切り替えて惚気ようとしたこともある。「大輝はとても優しい」と、毒にも薬にもならない惚気を口にしてみた。その時の莉奈の相槌はこうだ。
「わかる! 大輝ってそういうとこがいいよね」
毒にも薬にもならない惚気だったのに、莉奈の相槌は猛毒だったので、切り替えたばかりの私の気持ちはあっさりへし折られた。私がこれから口にしようとしている惚気のほとんどを、莉奈は既に把握しているのかもしれない。私が大輝の良いところをどれだけ口にしても、莉奈もきっと知っている。「わかるー! 」と言われてしまう。そんな惨めな思いをする羽目になるなら、私は聞き役に徹したい。
カフェ店員というよりはギャルソンと呼んだ方が相応しそうな男性がナポリタンを運んできて、莉奈の前に置いた。フェットチーネはまだ来ない。
「私は潤也くんに不満なんて無いの。でも、彼は私の交友範囲が広いことが不満みたい。私が男友達と遊んでると、すぐ嫉妬するんだよね」
せっかく運ばれてきたナポリタンは放置したままで、莉奈は続けた。不満混じりの惚気も莉奈の得意技だ。
「でも、潤也さんが女友達と遊んでたら、莉奈さんも嫌でしょ?」
「絶対にやだ! 潤也くんが他の女と一緒にいるところなんて想像もしたくない!」
莉奈の思考回路はどうなっているんだろう。莉奈と出会うまでは「自分がされて嫌なことは人にもしない」というのが私の中の常識だった。私の周りの友人たちも同じような常識を持った人しか存在しなかった。だけど、莉奈にその常識は通用しない。莉奈と話していると、私が今まで常識だと信じていたものが次々に崩壊していく。莉奈を相手に私の常識を説いたところで、無駄な気がした。
私のフェットチーネが運ばれてきた。アスパラやパプリカなど、色鮮やかな野菜が平麺の上に添えられえいる。果たしてフェットチーネとは。
「潤也くんは浮気なんて絶対にしないよ。すごく一途だから」
私は浮気の話じゃなくて女友達の話をしていたんだけど、いつの間にか話題が逸れている。会話の主導権はいつも莉奈だから、もう気にもならない。
こんなにも話が噛み合わない女とランチを共にしている理由は、ただ1つ。莉奈を大輝と会わせたくないからだ。私を抜きにして大輝と莉奈が会うことに比べれば、莉奈と2人きりのランチなんて辛くも何ともない。私が莉奈と定期的にランチをすることによって、大輝と莉奈が会う頻度を少しでも減らせるのなら、莉奈の惚気なんていくらでも耐えられる。
「いただきまーす」
莉奈がやっと惚気を止めて食事を始めたので、私もフェットチーネに向き合う。
莉奈は食べ方がきれいだ。ソースがたっぷりかかっているナポリタンを食べても、ソースがテーブルに飛び散ったりしない。私は平麺のパスタをどうやって食べるのがベストなのか悩んで、フォークを何度も皿の上でくるくるしてみる。
莉奈と会う度に、莉奈の恋人である潤也を気の毒に思う。飲み会で一度会ったきりだが、潤也は明らかに莉奈と違うタイプだ。たぶん、飲み会の幹事なんて絶対に避けたい、私と同じようなタイプ。それなら、莉奈と付き合うのは大変そう。
私と潤也は同じような悩みを抱えた同志なんじゃないかと勝手に解釈している。莉奈が大輝と仲良く話している時に潤也が見せた、あの困った笑顔。莉奈と潤也の距離感。あれはまさに、私と大輝の距離感と同じ。
密かに目論んでいることがある。莉奈と大輝。私と潤也。それぞれが友人になればバランスが取れるかもしれない。大輝が莉奈と仲良くし続けるなら、私も潤也と仲良くしてもいいはずだ。大輝には言えないような惚気や愚痴を潤也に溢してもいいはず。
潤也に異性としての魅力は感じない。私をそのまま男にしたような人と付き合いたいなんて思わない。だからこそ、私と潤也は異性の友人になれそう。飲み会の時にメッセージアプリで4人のグループを作ったから、その気になれば潤也に連絡は取れる。でも、大輝はともかく、莉奈が嫌な顔をするかもしれない。莉奈と潤也が揉めるかもしれない。それを恐れて実行に移せないでいる。
「由依ちゃんの料理も美味しそうだね」
私のフェットチーネを見つめながらそう言った莉奈の言葉を「一口ちょうだい」と同義だと解釈した私は「食べる? 」と聞いてみた。けれど、莉奈は笑顔で「いらない」と返してくる。莉奈は相手の気持ちを慮るなんて繊細な行為とは無縁だ。だからこそ、大輝の彼女である私の立場を完全に無視して大輝を頻繁に呼び出したり、2人きりで出かけたりできる。私にはできない。たとえ嫌いな相手だったとしても、他者の気持ちを完全に無視して自分勝手に振る舞うなんて難しい。それを簡単にやってのける莉奈は、けっこうすごい人なのかも。
私が潤也と仲良くしようとしても、どうやって声をかければいいのかさっぱりわからない。彼女がいる男性に気軽に声をかけるなんてできない。誤解されると困るから。
そして、潤也が私と同じタイプの人間だとしたら、間違いなく潤也は私に接触なんかしてこない。私との仲を誤解されて莉奈と揉めるのが嫌だから。結果、私と潤也の間にはどうやっても友情なんて成立しないから、私の目論見はただの妄想だ。同じ悩みを持つ者同士が友人になれないなんて理不尽すぎるけれど。
あれこれ考えるうちに、フェットチーネとはいったい何なのか、なんてことはとっくに忘れている。私は一生、フェットチーネが何なのかわからないままだろう。
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