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夜想曲(短編)4

 五

 少年は目のない人形を抱いたまま傘立てに刺さっていた紫色の和傘を借りて、開いた。傘は淡く光った。少年は提灯を肢にひっかけて飛び出した。糸のような雨が降っていて、傘や地面に当たった雫が一瞬発光して跳ねた。

 先程の妖怪たちはまだ店の近くにいた。何処へ行けばいいのかわからない様子だった。彼らの身体は濡れなかった。雨さえも、彼らを認識しなかった。少年は彼らに近づいた。髑髏に話しかけた。

こんばんは

「……こんばんは」

何してるんですか?

「何をしたらいいかわからないんだ。俺は何処からきた?何処へ向かう?何を好んでどう生きる?」

知らない

「ああ、そうだろうな。誰も知らない。誰もだ」

 他の数人の妖怪たちはなんとなく髑髏についてきただけのようで、気まずそうに黙り込んでいた。すると、沈黙を裂くように、遠くから大量の足音が聞こえてきた。少年にはわかった。彼らだ。あの時の百鬼夜行だ。

 彼らは足音のみを響かせてゆったりと歩いてきた。彼らも、濡れていなかった。とても静かで冷たくて、葬列みたいだ。そのまま少年の目の前を通り過ぎて、ゆっくり、ゆっくり進んでいって、少し先で止まった。誰かを待っているように。

 誰かが少年の肩に手を置いた。振り返ると、鬼が立っていた。隣には爺が鬼の袖を握りしめていた。その体には薄い煙のようなものがまとわりついていた。

こんばんは

「ああ、その声は翡翠の童かの」

 爺は鬼の袖を離れ、手を前に出して空間を探るような動きをした。少年は彼の手を握った。相変わらず皺くちゃで小さかった。爺は嬉しそうに笑った。少年も笑った。すると、爺の指先がサラサラと砂みたいになって、それから一気に身体が崩れ落ちた。

 真っ白な灰の山が少年の足元に積もった。鬼は懐から桜の花を取り出して、灰に落とした。それから小さな鈴をちりんと鳴らした。妖怪なりの弔い方なのだろう。鬼は右目を手で抑えながら話し始めた。

「私たちはね、実は目が見えないんだ。その分心でものを見ている。ちゃんと君の顔もわかる。けれども、この地においては、心臓ではなく瞳こそが命の源だ。つまり私たちは今、かりそめの命を宿している。だからいつか、砂になって消える。孤独のままに彷徨い歩く我々にとって、永久に忘却の彼方へと去ることは、赦しであるか、罰であるかはわからない」

自分の姿、見たことありますか

「ないな。手足くらいなら見えるが、顔はそうはいかない。私はどれだけ醜いだろうね」

見せてあげますね

 少年は鞄から鏡を取り出して、鬼の前で開いた。彼は無言で見つめた。

「……。どうやら私は私のことが見えないようだ。仕方がない。或いは、私はこれに映ることができないのだろう」

鬼は百鬼夜行の列に鏡を向けた。やはりそこには何も映らなかった。彼は少年に鏡を返して、そして何かを諦めたように小さく息を吐いた。

 ぼくの目には見えます

「ありがとう、私は私と君とが出会ったことが真実であると、そう思う」

 ぼくも、信じます

 鬼は寂しそうに笑った。良かれと思って見せた鏡が、彼を傷つけてしまったかもしれないことに気づいた。少年は申し訳なくなって、下を向いた。鬼はそんな少年の頭を優しく撫でた。彼の衣服の袖口から、線香の香りがした。自分がどんな表情をしていたかわからないけれど、きっと不恰好で情けない顔だったに違いないと、少年は思った。

 鬼と話している間に土砂降りになった雨が、爺だったはずの白い灰を溶かし、洗い流していく。鬼はそれを見て、呟く。

「繋がれた縁は、切れる時に痛みを伴うものだ」
 少年は静かに頷く。そして考える。ぼくも鬼も、やがて爺のことを忘れていくのだろう。それから、ぼくは鬼のことも忘れる日が来るのだろう。信じるという行為も、忘れてしまえば無意味だ。己の目に映る世界にしか存在していない彼らを失うのは、ぼくがぼくの一部を失うことと同じで、失われたぼくは二度と戻らないだろう。

 だけどもし、忘れることもできないままでこんなふうな出会いの繰り返しが続けば、ぼくはその切なさに耐え切れなくなってしまうだろうから、喪失というのは優しい呪いみたいなものなんだ。きっとそうだ。

 少年らは流れていく灰を最後まで見送った。

「わたしもああやって、いつかちゃんと、本当の意味で忘れられてしまいたいものだ」

 ぼくもです

 傘に当たる水滴がばちばち鳴り響くほど強い雨の中で、少年の返事はかき消されてしまったかもしれない。鬼はさよならも言わずに、百鬼夜行の列に戻っていった。妖怪になった終末堂の客たちも列に加わって、去っていった。

 雨は止み、背後が急に明るくなって、振り返るとペカペカとした無数の電飾の光で街が覆われていた。眩しすぎるそれに思わず眉を顰めてしまった。

 少年は傘を閉じて、終末堂まで戻ろうと来た道を引き返した。遊園地のような、変に楽しい、それでいて無人でもある街を綱渡りのように歩いた。何故か来た時より随分と道が長くなっていたし、知っている景色は綺麗さっぱり無くなってしまっていた。

 しばらく進むと、ボロボロの看板が立っていて、『終末堂はこちら』とだけ書かれていた。少年は迷わずそちらへ向かった。先では、臙脂色のスーツを着た頭の小さい案山子たちがアコーディオンや手回しオルガンを演奏していた。一人の人間の女性が、耳を傾けている。けれども、そこは無音の空間だった。

「耳、塞いでみな」

 案山子のうちの一人が言った。少年は耳を手で覆った。すると、耳の奥でかすかに音楽が鳴っているのがわかった。少しずつ音量を増して、透明な波のように少年の全身を駆けた。少年は目を閉じて、しばらく耳を澄ませた。

 音楽は一旦止まり、それから優しい歌声が聞こえてきた。どこの国の言葉かわからなかったけれど、たしかに愛してると、そう歌っていた。自分ではない、誰でもない何かに向けて発されているようで、宛名のない手紙を入れた小瓶のように、遠くへと、寂しく少年の頭の中で響いた。

 聴き終えた少年は目を開いた。そこはもう明るい電飾は消え去って、寂しい荒地が広がっていた。何人かいた案山子は一人だけになって、首に巻いたスカーフが夜風に乗って揺れている。

「わたしたちがこの『愛してる』を、根無草にしたのは、世界が美しく変わり果ててしまったからだ。今夜くらい、君の耳に泊まらせてあげてくれよ」

 少年が頷くと、彼の首は落ちてしまって、足元に転がった。彼の頭を拾ってどうにか直そうと思ったけれど、上手くいかなかった。よく見ると、彼にはペンで適当に書かれた目しかついていなかった。女性が少年に話しかけてきた。

「彼は私の愛する人よ。この愛は、帰るところを知らない愛なんかじゃないわ。どんな姿でも、たとえ人間でなくても、生きていなくても、愛してる」

 少年は彼女に案山子の頭を渡した。彼女は愛おしそうに抱きしめた。それから案山子の身体に寄り添うように座って目を閉じた。無音の空間の中で、彼女は「素敵な演奏ね」と呟いた。それを見た少年は、彼女と案山子を残して先へ進むことを選んだ。

 少年は荒地に背を向けて歩き出す。選択というのは時には優しくて、時には意地悪だ。だけどきっと、この切なさはぼくのせいじゃない。そう言い聞かせる。耳の奥、愛の残響が止まない。今夜くらいって言ったって、ここはずっと夜だ。たまらなく寂しい夜だ。彼女にとっても、そうだ。

 愛は美しい。でもそれを伝える方法を間違えれば、暴力へと変わってしまう。この残響は脳みそを殴り続けるだろう。そんな気がした。

 少し離れた場所まで来た時、深呼吸をして気分を落ち着けてから、菫の目を人形にはめた。ラムネ瓶の中のビー玉をもう片方の目の代わりにした。

「あ!お前!久しぶりだな!」

 菫は少年に飛びついた。少年はほっとした。姿が変わってしまったすみれの、変わらない部分に安心した。

「お前、ぷぷらを食ってないだろうな」

食べてないよ

「よかった。だけど俺はなんにもよくない。こんな人擬きの姿じゃもう帰れない。兎に角、今は終末堂にいる仲間と話がしたい。あいつらは裏切り者か、そうじゃないのか、確かめたい」

 少年は菫を丁寧に抱いて、終末堂を目指して歩いた。本当にこの道で合っているのか、わからなかった。どこからか、青く光る蝶の群れが飛んできたから、少年はついていくことにした。

 暫く行くと、木造の建物が見えた。終末堂にそっくりだった。蝶たちはその建物の屋根にびっしりと張り付いて、大人しくなった。

 少年は走って建物の前まで行った。それは終焉堂だった。入り口のすぐ側に生えた林檎の木に、停まっている梟。

「こんばんは、またお会いしましたね。中へ入られるのなら、その人形は目に見えぬところへ隠してからにしてください。子どもたちが怖がりますからね」

子どもたち?

「ええ、ここの客人は皆幼い子どもばかりですよ。振る舞うのはぷぷら料理ではありません。周辺に生えた木に実る肉や果物です。ご安心ください」

終末堂は?

「ああ、あれはもうとっくの昔に崩壊しました。残骸くらいなら、残っているでしょうけどね」

ぼくたちが出会った日からどれくらい経ったのですか?

「さあ、忘れてしまいました。それほどに、長い長い時が経ちましたよ」

終末堂のみんなは何処へ?

「彼らは難破船の夢へと導かれていきましたよ。大人も人形もです」

難破船?

「ええ、難破船です」

 梟はそれだけ言って、目を閉じてしまった。剥製のように動かなくなった。少年は傘を閉じて終焉堂の屋根の下に立った。菫が心配そうにぼくを見つめた。

「中へ入るのか?」

 うん

「わかった。子どもが怖がらないように、大人しく鞄の中に入ってることにする。だけど気になる事がある。子どもたちがこうして街で生活してるってことは、俺の仲間は、ぷぷらたちは絶えてしまったのか?」

わからない

「確かめなきゃいけない」

 子どもたちに聞いてみるよ

 少年は店の中へ入った。終末堂の中を反転させた空間が広がっていた。鏡の中に入ったような、不思議な感覚がした。

 唯一違うのは、黒板が設置されているということだった。黒板には歴史の授業とだけ書いてあって、他は消されてしまったようだった。チョークで書いた文字の痕跡が少しだけ残っている。今は授業中ではないようで、子どもたちははしゃぎながらアップルパイを食べている。

 店員は相変わらずぬいぐるみたちだったが、そこには梟の言う通り、大人の姿も、人形の姿もなかった。店内を見渡していると、一人の男の子が近づいてきた。彼は、ぷぷらたちが見せ物を披露したあの日、何処かへ連れて行ってしまった子どもたちのうちの一人だった。右の羽が折れてしまったようで、偽翼をつけている。

 子供たちをよく見ると、アップルパイを食べている彼らのうち、何人かはあの日出会った子たちだ。男の子は少年に笑顔で挨拶をした。

「こんばんは。君、随分昔に会ったことあるよね」

うん。一緒に紙芝居を見たね

「よかったら、こっちへおいでよ。話をしよう」

わかった

 少年は子どもたちに加わって、一緒にアップルパイを食べた。子どもたちはみんな楽しそうで、ぬいぐるみたちものんびりと働いていた。穏やかな時間が流れていった。少年は男の子に質問した。

ねえ、君たちはどうして此処に来たの?

「ぷぷらも大人もいなくなってしまったからだよ。僕たちはね、ぷぷらに守ってもらっていた。だけど、みんな悪い大人たちに狩られて行ってしまった。僕らは怯えた。次は僕らの番なんじゃないかって。だけどね、ぷぷらがいなくなった後、大人たちもどこかへ消えてしまったんだ。怯える必要がなくなったから、こうして街に出てきた」

守られていた?

「そうだよ。僕らはぷぷらに沢山の芸を教えてもらったよ。ご飯も食べさせてもらえた。僕らがどこにも帰れないことを知っていたから、きっとそばにいてくれたんだ。中にはさ、悪い妖に食べられちゃった子どももいるんだけど、生き残った子供たちとぷぷらたちは、本当の家族みたいだったんだ」

妖は人を食べないんじゃないの?

「いいや、それは良い妖の話だよ。昔はほとんどの妖怪が人を食べなかった。だけどね、最近はそうじゃない。良い妖と悪い妖がいるんだよ。それにしても君は不思議だね、遠い過去から来たみたいに見える」

ぼくも不思議。未来に来た気分だよ

「君は知らないことがたくさんあるんだね。そうだ、ねえ、君は知ってる?ぷぷらを狩っていたのは大人たちだけど、ぷぷらを料理にして振る舞っていたのは人形たちなんだって。だからさ、僕らは人形たちに会いたくないんだ。奴らはとっても怖いからね」

誰に教えてもらったの?

「ぬいぐるみたちだよ」

 少年はぬいぐるみの店員たちの方を見た。彼らは少年の冷たい視線を無視して働き続けた。彼らのうちの一つが一度だけこちらを見て、ニヤリとした。

君はぬいぐるみのこと、どう思ってる?

「優しくて大好きだよ。僕らに沢山のことを教えてくれるんだ」

それは全て正しいこと?

「そうだよ、だって偉い人だもの」

なんか変だね

「変じゃないよ、何も。少なくとも、君よりは僕の方が物知りだよ」

そう、かもね

 少年は質問をやめてアップルパイを黙々と食べた。それからすぐに食べ終えて、立ち上がった。男の子はもう行ってしまうのかと言いたげにぼくを見上げた。

終末堂の跡地はどこ?

「ここを出て、石畳に沿って進んで、二つ目の角を右に曲がると紅葉とどんぐりの道がある。そこを真っ直ぐに進むと終末堂があるよ」

ありがとう

「ばいばい。気をつけてね」

 ……君もね

 少年は外へ出て、未だ目を瞑っている梟に小さく手を振ってから、歩き出した。鞄の蓋を開けると、菫が顔を出した。

「子どもたちは、俺たちを家族だと思ってくれていたのか。知らなかったな。俺が復讐だと思ってやったことが、あの子たちを救っていたのか?だけど人形になったぷぷらたちのことを恨んでいた。俺は、一体どうすればいいんだ……」

 そのまま菫は、鞄の蓋を自分で閉めて、引きこもってしまった。少年は揺らさないように気をつけながら、夜空の下を進んだ。

 男の子が言った通りに行くと、落ちた紅葉が敷き詰められて絨毯のようになった、季節外れの道があった。踏みしめてできた足跡は一瞬白色に変色し、また朱色に戻った。

 しばらく進むと瓦礫の山が見えた。周囲には、むしり取られたような半透明の羽がいくつも落ちていた。あれが終末堂だった場所だろう。少年は鞄の上から猫を優しく撫でて、着いたよ、とだけ言った。

 菫ゆっくりと鞄から出てきた。少年は菫を抱いて地面に降ろしてあげた。少年たちは瓦礫の山の前まで行った。踏みつけてしまった羽たちは、綺麗な銀色の砂になった。瓦礫も、同じように触れたところから砂になって崩れた。

 砂の山をかき分けると、車輪のついた木箱が沢山出てきた。連結できるように金具がついている。そのうちの一つの蓋を開けると、新品の人形が入っていた。箱たちを退けると、床板が見えた。床板を外すと、以前と変わらず沢山の足のない人形たちがいた。

 彼らはみんな目を砕かれて、横たわっていた。たった一人、残っていた人形がいて、彼女は大きな石を抱いて転がったままこっちを見て泣き始めた。ボロボロの身体はもう動かないようで、カタカタ震えながら静かに泣いた。

「ワタシはみんなが床下で何百年、何千年も過ごすくらいなら消えた方がマシだって言うから、望む通りにしただけ。ワタシも、みんなと消えるはずだった。それなのに、この目は涙を流している。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 菫が床下へと降りて彼を抱きしめた。それから自分のビー玉の目を取った。

「俺はお前がやったことを正しいとは言ってあげられない。だけど間違っているとも思わない。消えることや、それを手伝うことが悪だなんてのは思い込みだ。悲しいことではあるけど……。お前、俺と一緒に来なよ。俺の身体を分け合えば、お前はまた外で過ごせる。俺にはもう、お前しか仲間がいない」

「だけど、ワタシは弱いから、無能だから床下行きになったの。あなたの邪魔になるのは嫌だ」

「邪魔じゃない。俺に、お前を救わせてほしい。これは俺の我儘、願い事だ。頼むから、俺のために救われてやってはくれないか?」

「……わかったわ」

 人形は自分の片目を差し出した。菫の顔に空いた穴に、ビー玉の代わりに、綺麗な目がはまった。二匹のぷぷらの魂を宿した球体関節の人形は、余った目を抱いて月を見上げた。少年は彼の身体を引き上げた。砕かれた目を拾い集めて、瓶に入れ、渡した。

 菫は抱いていた瞳もその中に入れた。それから少年たちは瞳を失ってしまった他の人形たちの身体を引き上げて、銀の砂の中に埋めた。
 猫は木箱の金具を連結させてを引っ張ってきて言った。

「catastrophe駅に行って白外套に頼めば、砕かれた目を復元してこの新品の人形たちに与えてやれるはずだ。もう本当の姿には戻れないけれど、新しい目は元の目とは別物だけれど、俺たち家族の在り方は変わらない」

 難破船にいる人形たちはどうするの?

「仲間を増やしてから助けに行く。だけどもし、あいつらが自分の意思で船にいるのなら、無理に連れ帰ったりはしない。それじゃあそろそろ行く」

ちょっと待って

 少年は菫に、青い小人用の帽子を渡した。菫はそれをじっと見つめてから丁寧に被った。それから、色違いの二つの目で少年を見た。

「俺たちは今から、三匹で旅に出る。だから、寂しくない」

いってらっしゃい

「ありがとう。そして、さよならだ」

ばいばい

 少年はしゃがんで菫と握手をした。それから、互いに別の方向へと歩き出した。一度だけ振り返って見た菫の背中は、頼もしく見えた。そして、彼の引く木箱の列は、棺のようにみえた。


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