「私は彼女の親友だったらしい」第19話
その日もいつもと変わらない朝だった。
少しだけ降っている雨がやもうかという時、堺はいつもの集合場所であるコンビニに車を止めた。
しばらく待っていると遠くから元気よく駆けてくる足音。時間はまだ朝の5時だというのに元気なことだと煙草をくわえながらほくそ笑む。
「先生、おはようございます!」
「おう」
煙草の火を消して、買っておいた缶コーヒーを手渡した。
「おごりだ」
と言えば、感情をあふれさせた満面の笑みで
「ありがとうございます」
と言われる。
懐いた子犬を飼っているようで可愛いと思う。すっかり慣れたように助手席にするりと乗りこむと、2人だけの秘密のドライブの開始だ。
いつのころからだったか。彼女が入学してしばらくたったころから、こうやって朝の出勤前に2人で会うことが日課になっていた。
別に甲斐田佳代子のことが好きなわけではない。彼女は俺のことが好きだろうが、その気持ちに答えてやるつもりはない。それでも女子高生というのはいろいろおいしい。未成熟な心も頭も身体も。それを自分色に染め上げるのは光源氏のような気分になれる。だから時々こうしてお気に入りの生徒を作るのだ。
もちろんこれは秘密の関係だし、俺がそう約束させればだいたいの生徒は素直に言うことを聞いてきた。
甲斐田佳代子もそうだろうと思っていた。
しかし、その日の彼女は少し違った。
受け取った缶コーヒーを開けもせず、手の中で温めている。
「何してるんだ?」
学校に着くまでは30分。俺のためにわざわざ早起きをして学校から正反対の待ち合わせ場所までやってくる。そこまで心酔しているくせに表情はあれから冴えない。
「……先生って私のことどう思ってるんですか?」
また来た。
「どうって……。大事な生徒だと思ってるよ」
「それ以上にはなれないんですか?」
上目づかいで聞いてくる。この程度の質問は、今まで嫌というほど聞いてきた。
「俺は高校生とは恋愛する気はないし、もう結婚もしてるから」
ぴしゃりと言えば、大体の子は諦める。でも甲斐田佳代子は浮かない表情だった。
「お前が高校生でいる間はちゃんとそばにいてやるから」
赤信号の間に背中を優しく包んでキスをしてやる。
それだけで惚けた表情になるんだからちょろいもんだ。わざとらしくリップ音を立てて唇を外す。
「な?」
と笑いかけると彼女は観念して頷いた。
ドライブと言ってもキス以上のことはしない。彼女が自分から身体を見せてくることはあっても俺は手を出さない。
教員という職を失うわけにはいかないし、自分にも家庭があるからだ。
それに、俺には今、彼女たちよりも夢中になる存在がいた。
「なあ、何か分かったか?」
ここからはいつもの業務連絡の時間だ。
「えっと……あずみちゃんは卓球の授業で3試合連続勝利したそうです」
「あとは?」
「あとは……特には」
思わず舌打ちをする。
「ごめんなさい」
「卓球で勝ったのは先々週もだろ?同じ情報なら必要ない」
「でも、今週も勝ったっていうのはずっと強いってことじゃないですか」
「俺が欲しいのは、新しい高橋の情報なんだよ!」
思わず語気が強くなってしまった。
甲斐田佳代子はすっかり委縮してしまって
「すみません……」
と呟く。
「ったく、そのために達海と付き合ってるんだろ。早く情報を聞き出して来いよ」
「聞いてはいるんですけど……」
「使えねえやつだな」
イライラしてしまってハンドルをとんとんと叩く。
「ごめんなさい。嫌いにならないで」
腕にすがりついてきたので
「うるせえ、離せ!殺すぞ」
と怒鳴った。
「……なんでそんなこと言うんですか……」
今日の彼女は面倒くさい。前から俺が高橋を気に入っていることをよく思っていないようだし、そろそろ潮時かもしれない。
隣でしくしくと泣いていたが、それから話をすることはなかった。
まさかそれで死ぬとは思ってもいなかった。
高校まで送り届けたのに教室にはいないなとは思いつつ、甲斐田佳代子のクラスで授業をしていた。彼女が身を投げた瞬間、俺の頭は今まで煮ないくらい興奮した。
ついに、俺自身が人の命を左右できる存在になったと思った。
都合がいいことに彼女は朝から学校に来ていないことになっていた。俺はこっそり車に戻り、彼女の荷物が車内に置かれたままになっていることに気づく。
慌てて鞄を取り出すと、携帯がするりと落ちた。
一応、と中身を確認する。パスワードは俺の誕生日らしいのですんなり開いた。
SNSを見ると案の定、不審なことが書いている。俺と高橋に関することで彼女の死因に直結しそうなことは削除した。その前にスクショして俺のラインに送っておいたのは自分でも冴えていたと思う。
「こうやって高橋のことに使えたんだから、あいつの命も意味があったかもな」
そこまで聞いて私はゆっくりと後ずさりした。
「おいおい、どこに行くんだ?ここが高橋の家だろ?」
「私のことも殺すんですか」
先生は私が下がった分だけ距離を詰めてくる。
「だから俺は殺してないって。甲斐田佳代子が勝手に死んだだけだ。まあ、高橋宛に遺書を残していたのは予想外だったけどな。あいつの中で高橋はちゃんと親友だったんじゃないか?それこそ初めは俺に頼まれて情報収集していただけだったかもしれないが、どんどん詳しくなるにつれて、高橋に特別な感情を抱いても不思議じゃない」
俺だって、お前に特別な感情を抱いてるわけだし。
そう言いながら近づいてこられても、もう恐怖しか感じなかった。
「来ないで」
「そう言うなって。高橋だって遺書がなければ甲斐田佳代子のことなんかどうとも考えなっただろ?それに俺がポストにアカウントの写しを入れなかったら、彼女のことを考えるのも辞めそうだったじゃないか。そう考えると佳代子のしたことは意味があるよな」
「……どんな」
思わず顎を引く。
「俺たちにずっと存在を忘れさせないための死だ」
先生はそこまで言うと、
「じゃあ、そろそろお別れの時間だ」
と背を向けた。
「もう高校には帰らない。最後に高橋に会えてよかったよ」
「先生はこれからどうするんですか?」
思わず聞いていた。
「お、こんな俺のことをまだ心配してくれるのか?本当に優しいんだな」
先生は嬉しそうに笑った。
「子曰く、巧言令色、鮮なし仁」
私の問いに答えることはなく、そのまま去っていく先生を黙って見送ることしかできなかった。
孔子は言った。口先だけうまく、顔つきだけよくする者には、真の仁者はいないと。
先生が最初にそう言った時、私はその言葉の意味が分かっていた。それでも心のどこかで堺先生のことを信じていたいと思っていたから今日まで目を逸らしてきたのだ。
私はどうすることが正解だったのだろう。
心の中にあるもやもやは、私一人が抱えるには大きすぎた。
堺先生はそれから学校をやめてしまった。短期間で2人の国語教員を失った学校は最初は慌てていたが、他の学年の先生がカバーすることで何とか通常を取り戻すことができた。担任がいなくなっても副担任がいるので、こちらへの影響はあまりない。先生だって代わりがいるんだから、唯一の存在ではないのだと思った。
夕方のニュースも目新しい情報がないのか、私たちの高校のことが取り上げられることはなくなった。それよりも別の県の小学校でいじめがあったことが昨今の大きなニュースで、関心はそちらに行ってしまったようだった。
今日も山月記の授業。梅雨は終わってしまったが、いつまでたっても授業は終わりそうにない。他の学年担当の先生が代わりに授業をしてくれて、みんなは文句なく授業を受けている。
人間関係が上手くいかなかった李徴と違い、かつての友、袁傪は順調に出世していく。きっと李徴にとって袁傪は憧れの存在だったのだろう。理想の自分になりたくて、でもなれなくて、諦めきれないプライドが、李徴を虎に変えてしまった。
甲斐田さんも同じなのではないか。フッと誰かになりたくて、あの方法を選んでみた。結果として何者にもなれなかったけれど。
袁傪と別れた李徴はあの後どうなってしまったのだろう。虎から人間に戻ることはできず、虎として人生を終える。残された家族のことを思っても、家族は李徴が死んでしまったと思うしかない。いない人間のことばかり考えて生きるための脳みその空間は全員に十分にはないのだ。
どんなにつらくても前を向いていくしかない。
そうして、過去の出来事は思い出の一つとして乗り越えられていく。甲斐田さんの死も我々の中で思い出になっていく。彼女がどんな理由で死んだとしても、生きている人間に残るものなんて大したことはない。
だんだん忘れ去られていって、夏になれば芝生でお昼ご飯を食べる生徒たちも出てきて、その時に、そう言えば誰かが死んだななんて話をするのだ。数年たてば、そんな事件もあったらしいなんて噂になったり、お化けがでるんだなんて勝手に七不思議にされたり、そうやって消費されていくのは目に見えていた。
それでも、私の中には残された。彼女が死んだからこそ、私の中に彼女という存在が生まれた。私にとっては忘れられない記憶の一つになった。
これが彼女のしたかったことだとしたら、彼女の作戦は成功したことになる。彼女は私の中で永遠に生き続けるのだ。
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