「私は彼女の親友だったらしい」第10話
渡利先生の部屋から出て暗い気持ちで家路についた。先生が新聞記者とつながっていることは不信感につながった。達海も同じ気持ちだったのか、一緒に帰って来たけれども一言も言葉を交わすことはなかった。
家に帰ると母さんがマンションの前で待っていた。
「ようやく帰ってきた」
母さんはあわてて、駆け寄ってくる。
「早く入って」
緊迫した面持ちだ。
「どうしたの? 」
「でかけるわよ」
「どこに? 」
「甲斐田さんのお宅」
「甲斐田さん? なんで? 」
「警察から連絡があったのよ。甲斐田さんのお母さんが良ければ会いに来てほしいって言ってますって。ご挨拶に行きたいとは思っていたんだけど、こういう日に限って遅く帰ってくるんだから」
私が言い返す暇もなく、母さんは行くわよと私の手を引いて家の中に引き入れる。
「何するの」
「早く着替えて」
「え、制服だとだめなの」
「何言ってんの。同級生の友達が制服で行ったら向こうは悲しくなるに決まってるでしょ。できるだけ気を遣ってあげないと」
母さんの言うことは最もだ。こういう時に気が利くのは尊敬する。ぽつねんと立ち尽くした達海だったが、
「そう言うことだから今日はごめんね」
母さんが謝ると、意を決したように言った。
「俺も連れて行ってください」
「でも……」
母さんが渋るのも分かる。知り合ったばかりの同級生をいきなり連れて行くわけにはいかない。
「じゃあ、おうちまでご一緒してもいいですか。ご挨拶できるかどうかは自分で聞きます」
彼の真剣な目に押された母さんは、そこまで言うならと達海が付いてくることを許した。
甲斐田さんの家に行くのは初めてだった。小学校のころから一緒だと言っても、放課後に遊んだこともない。私の家から小学校を挟んで反対側にある一軒家が甲斐田さんの家だった。
赤い屋根の風格のある家。小さな庭にはたくさんの花壇があったが、しばらく手入れされていないようで草花は元気がなかった。呼び鈴を鳴らすと玄関の扉はすぐに開いた。
「はじめまして、高橋と申します。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません」
「ああ……」
出てきたのは男性だった。甲斐田さんのお父さんだろう。無精ひげの生えた疲れた顔をしていた。離婚した父さんと会うことはあまりないのだが、いくら父さんでもここまでひどい時はない。
甲斐田さんのお父さんは「すみません、今妻を呼んできます」といったん引っ込んでしまった。
代わりに出てきたのは女の人。きっと普段は綺麗なのだろう。茶色に染められた髪を無造作に下ろし、目の下にはクマを作っている。しかし
「高橋さん、始めまして。佳代子の母です」
思っていたよりもはきはきとした声が返ってきた。
「すみません、ご挨拶だけでもと思いまして」
「こちらこそ、急にお願いしてしまい申し訳ありません」
甲斐田さんのお母さんは隣にいる私を見て
「あずみちゃんよね? はじめまして」
優しい顔で笑いかけてくれた。黙ってぺこりと会釈をする。甲斐田さんは達海に視線を移し「あなたは?」
少し怪訝な顔で問いかけた。達海は居住まいを正し
「はじめまして、達海幸弘といいます」
頭を下げた。その瞬間甲斐田さんのお母さんは、はっとした顔をして
「あなたが……」
と呟いた。
「どうぞ、入って」
達海も招き入れられて私たちは甲斐田さんの家へ入っていった。
玄関を抜けると長い廊下が続いていた。壁にはたくさんの写真が貼ってあって、どれもこれも甲斐田さんのものだった。水族館の大きな水槽の前で振り返って笑う甲斐田さん。公園でアイスを食べる甲斐田さん。小さいころの写真から高校生の入学式の写真まで綺麗に枠に飾られている。きっと家族仲がよくて、出かけるたびに写真を撮って思い出を残しているのだろう。こんな顔で笑うんだ、と初めてよく見た気がした。
「よく撮れてるでしょう?」
甲斐田さんのお母さんは目を細めた。愛おしいものを見る目だった。
「ええ、可愛らしいお嬢さんですね」
「ありがとうございます」
母さんが気を利かせて話をした。二人が先に行くのを私たちは黙ってついていった。
廊下を過ぎると大きめの和室。畳の匂いがした。
「最近畳を張り替えたばかりなんです。佳代子が新しい畳がいいって言ったから……」
新しい畳がいいと言った本人は、もうこの世にはいない。そんな言葉が後に続くのが分かったから、どうしても重い空気が流れた。
部屋には大きな窓。本当は綺麗な花が咲き乱れていたのだろう、庭に続いている。広い畳の部屋にぽつんと置かれた仏壇。誰のものかはすぐにわかった。
「ご挨拶させていただいてもよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
母さんは私の背中をそっと押した。私は数歩、仏壇に近づく。ドラマの中で見たことはあったが、本物の仏壇を見るのは初めてだった。金色の仏壇の真ん中に置かれた写真。先ほど見た廊下に飾ってあった高校の入学式の写真だ。にこやかに笑うその顔は、一年後に命を絶つ人には見えない。
仏壇の前に正座し、よく考えてみれば作法なんて知らないなと思いだす。
「気にしないでそのままお話してくれると嬉しいな」
お話をする、ああ、そうか。
私は手を合わせて、目を閉じた。
目をつぶっても、甲斐田さんに何を話しかけていいのか分からない。どうして死んでしまったのか、一体何を考えていたのか、問うことも、けなすことも、泣く資格も私にはない。
ただ、安らかにお眠りください、とありきたりな言葉だけを伝えた。目を開けると隣には母さんもいた。私が目を開けた少し後で、母さんも目を開ける。
「ありがとうございます」
甲斐田さんに挨拶をする母さんの真似をして頭をぺこりと下げた。
「いえ、こちらこそありがとうございます」
その様子を見ていた達海は
「俺もいいですか?」
と断りを入れ、静かに仏壇に手を合わせた。じっくり一分近く目をつぶっていた達海が顔をあげた時には、瞳にたっぷりと涙を浮かべていた。
「ありがとうございます」
座ったまま頭を下げた彼を見て、ああ、彼氏というのは本当だったんだなと思った。心のどこかで彼のことを疑っていた。甲斐田さんが死んだ原因が彼にあるのではないかと思っていた。
しかし、こんなに純粋に彼女のことを考えて涙まで流せる彼は本当に彼女のことを想っていたに違いない。
疑ってしまった自分の心を少し恥じた。そんな彼の顔をみた甲斐田さんのお母さんは嬉しそうに笑い、
「少しお茶でも飲んでいかれませんか?」
と言った。疲れた顔をしていたので断ろうとしたのだが、学校での佳代子のお話聞かせてくださいと笑顔を作られると断ることができなかった。
出されたお茶をすすりながら話し出したのは達海の方だった。告白したのは甲斐田さんの方からだと言うとお母さんもびっくりしたような、嬉しそうな、でも、ほんの少し寂しそうな顔をした。
母さんはそこで、達海が甲斐田さんの彼氏だったと知り、驚いて私を見た。達海のことを説明する時間はなかったので仕方ない。私はふいと視線を逸らして、甲斐田さんのお母さんの話を聞いた。
「かっこいい彼氏ができたってすぐに報告してくれたのよ。ずっと会いたいって思っていたんだけど、あの子、恥ずかしいから嫌だっていって写真すら見せてくれなくてね」
「俺たちも一緒に帰ったりとかあまりしてなくて……本当はもっと一緒に居たかったんですけど……」
そこまで言うと達海は言葉を濁した。今日の彼は涙腺が弱いらしい。
甲斐田さんのお母さんも、ありがとうねと頷いている。
「あの子は高校生活を楽しんでいました。友達も彼氏もいて、部活も楽しいって毎日笑っていたんです。あの日だっていつものように家を出ていって……。本当にどうしてこうなってしまったのか……」
ぽたぽたと畳に涙が染み込む。こんなふうに大人が人目を憚ることなく泣いているのを初めて見た。
「だから、佳代子の友達が来てくれて嬉しいの。あの子がこんなに愛されていたんだってわかるから」
甲斐田さんのお母さんは顔を上げて笑う。その顔を直接見る勇気はなかった。
「あずみは何か思い出話はないの?」
母さんに言われて背中に嫌な汗をかいた。
「えっと……」
言葉に詰まる。特別な思い出などない。小学校からの同級生なのだから話したことくらいはあるが、記憶に残っているものはない。
「あずみちゃんのことは佳代子からよく聞いてたわ」
代わりに話し出したのは甲斐田さんのお母さんだった。
「あずみちゃんは小学校のころから成績が良くて大人っぽくて憧れだって。高校の体育でも卓球大会で活躍してたって」
意外だった。どこでそんな話を聞いたのか。確かに体育では卓球を選択している。運動はあまりできない私だが、卓球は運動ができない人たちが選択する授業だった。その中ではわりと勝つことができた。しかし卓球グループの中に甲斐田さんはいなかったし、他の選択授業のことなんて噂で回ってくることもなかった。クラスも違うし、選択授業も違うのにどうして私のことを詳しく知っているのか。
成績がいいかどうかも彼女が知るはずはない。テストの点数を彼女に教えたことはないし、それ以外の他人にも見せたことはない。それなのに甲斐田さんは私のことを知りすぎだ。
予想以上に甲斐田さんは私のことを親友として家で話していたようで
「ようやくあずみちゃんに会えて嬉しいわ。佳代子もあずみちゃんが来てくれて嬉しいと思うし……」
そこまでいうと、わっと大きな声を上げて畳に突っ伏し泣き始めてしまった。母さんがさっと側に寄り、甲斐田さんのお母さんの背中をさする。
ずっと肩を震わせている姿を見て、甲斐田さん、どうして死んでしまったの。あなたのことをこんなに大事に思ってくれる人がいたんだよ、と初めて彼女に心の中で話しかけた。
家を出るとすでに日は沈んでいた。
「よかったら、また来てね」
私は彼女との思い出をろくに話すことができなかった。それでも、甲斐田さんは、あずみちゃんが来てくれた方が佳代子も喜ぶと思うからと泣きそうな顔で続ける。
「私思うのよ、あの子が死んでしまったのに理由なんてないんじゃないかって。きっとふっとどこかに行きたくなってしまったのよ。だってそうじゃないと理由が見つからないもの」
わたしは無言で頷いた。なんとなく逃げてしまいたくなる気持ち、わからないでもない。将来への漠然とした不安とか、日々のもやもやした気持ちとか、そういうものを全て捨ててしまいたくなる。
手を振る甲斐田さんに会釈をして、私たちは家路に向かう。家を出てから一切しゃべらなかった達海だったが、マンションの前に着くと
「今日はありがとうございました。無理言ってすみませんでした」
礼儀正しく頭を下げた。
「いいのよ、甲斐田さんのお母さんも喜んでくれていたじゃない」
母さんは達海の肩に手を置いて慰める。泣いているのか、達海は顔をあげようとせず、小さく肩を震わせる。
「……すみません」
こんなに弱っている彼を見るのは始めてだ。母さんは持っていたポケットティッシュを手渡す。意外にも彼はそれを使って目元を覆う。
しばらくすると落ち着いたようで、真っ赤な目元を隠すことなく顔をあげた。
「じゃあ、今日は帰る」
「……うん」
どういってあげればいいのか分からなくて曖昧に頷く。マンションに留めてある自転車を取って帰って行った。
その後ろ姿を見ていた母さんが
「彼もつらいわよね」
と呟く。
確かにそうだろう。私よりも心の傷は大きいはずだ。彼女のために涙を流すことができた。それが何よりの証拠だ。じゃあ、私はつらくはないのか、そんなことを自分に問いかける。
答えは出てこなかった。
分かったことは、確かに私は甲斐田さんの親友だったらしいということだけだ。
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