見出し画像

生涯を戦場に過ごし戦国時代を終結へと導いた、織田信忠の家臣団と軍団

織田信忠の家臣団と軍団その2、「若殿様(信忠)領の地方方面軍軍団長」長野信包の軍団、金森長近の軍団、斎藤長龍の軍団、池田恒興の軍団。川尻秀隆の軍団、毛利秀頼の軍団、森長可の軍団。 

 

若殿様 織田信忠卿  肖像のつもり


幌(母衣=ほろ)

「中将信忠卿は 御ほろの衆 十人ばかり召し連れ、
仁科五郎楯籠り候 高遠の城、 ~(中略)
御敵城の振舞の様子 御見下墨(さげすみ)なされ~(中略)かいぬま原に御陣取。」

『信長公記』                                                               

<小姓・加藤辰千代、高遠(城)先駆けにて 信忠卿より紫幌を賜る。信忠さんの親衛隊・紫幌衆というのがあったのかもしれませんね。 >


武田の防壁 川尻秀隆!

趣味で「小説家になろう」に信忠さんの冒険小説も書き出してみました、よろしければご笑覧ください。→ 織田信忠ー奇妙丸道中記ー


織田信忠軍団の拡がり、光秀と同様に徳川家の拡張域が無くなる

1582年:織田信忠譜代家臣団 紫色が織田信忠卿の直轄地。彩色部分が信忠が影響力を持つ軍団長の軍事的担当地。

軍団初期の対武田の東美濃の双璧川尻秀隆・池田恒興が東西の旗頭に出頭。 飛騨方面軍は「甲州乱入」後は遊撃部隊か。

内ヶ島は佐々軍に配属され越中与力か。

 

長野信包(織田信包)の家臣団

 北伊勢衆旗頭、織田一門の遊撃軍団長。

畿内平定に織田信忠軍団の与力、伊賀攻略に信雄軍団の与力(信忠の代官として派遣か?)。

中伊勢の名族・長野家

 (瀧川一益・三好信孝が各方面軍として出征したのちの北伊勢は・・。)

長野信包 (1543~1614)織田・平・(工藤)・三十郎・上野介・信良・長兼。信秀四男または六男、信長の弟。長野(工藤)藤定の娘婿となる。1569年北畠具教の息子、長野具藤を追い北伊勢の豪族長野家に養子に入る。伊勢長野城主。のち1580年津田一安に代り伊勢上野から安濃津(津)城主へ。1581年9月「伊賀平定戦」に加太口大将。副将に瀧川雄利。伊勢衆を従え乱入。伊賀山田郡を拝領する。<細野・雲林院氏など、旧家臣を次々放逐。信澄も養父・磯野員昌を追っているので、信包さんの器量が(汗)・・・とかではなく、養子乗っ取り政策の一環なのでしょう。><1558年北畠具藤が養子。1562年惣領。1569年追放。>

<長野衆> 一門といっても外様の関係。

細野藤敦 (*1540~1603*1577)九郎右衛門・壱岐守・入道伊三・守清。長野家家老。細野藤光の息。母は峯道正の娘。弟に分部光嘉。1562年に長野家嫡流(長野藤定)が断絶。北畠具藤が惣領家を継承。1569年北畠の将・山崎左馬助を討つ。1569年織田信包が長野惣領家の養子に迎えられる。1577年2月逆心を見破られ、信包の元から出奔。弟二人は戦死。のち蒲生、秀吉に出仕。伊勢安濃城主。

分部光高 (1527~1569)(細野)・四郎次郎・左京亮・若狭守。細野氏の庶流。長野家家老。養子に分部光嘉。娘婿に長野大和守・藤定。親織田派。1564年11月伊勢方面の情報を信長へ流し賞される。川北長郷とともに主・北畠具藤を追放。1569年北畠征伐「羽野の合戦」に北畠の将・山崎左馬助に破れ戦死。中山城主。42歳。

分部光嘉 (1552~1601)四郎次郎・与三右衛門・左京亮・政寿・昌寿。細野藤光の息。分部光高の養子。母は峯道正の娘。細野氏の庶流、細野藤敦の弟。長野家家老。親織田派。1569年養父の死により家督。1573年「鷹野尾の合戦」に軍功。1575年上野城築城。1576年織田信長から忠勤を賞される。1580年主・信包の安濃津城転居により、上野城主。1581年伊賀乱入に従軍。「大仏城攻略」に軍功。のち秀吉家臣。<若いのに重用されます。>

川北長郷 (*)河北・ニ介・内匠助。北伊勢衆。伊勢長野家譜代の臣。親織田派。分部光嘉とともに主・北畠具藤を追放。1568年、長野信包に臣従する。1576年織田信長から忠勤を賞される。<川北藤元と同一人物?。><豊臣秀吉の家臣に河北算三郎あり、1592年肥前名護屋に在陣。一門か。>

今西* (*)橋五郎。北伊勢衆。伊勢長野家、川北長郷の代官。

工藤* (*)長野。北伊勢衆。長野家一門。1568年主・北畠具藤を追放、長野信包に臣従する。

⇔○雲林院祐基 (*)うじい・慶次郎・慶四郎・大夫・出羽守・祐尊。工藤家一家。北伊勢衆。1568年主・北畠具藤を追放、長野信包に臣従する。1580年に追放される。娘婿に信長側近の矢部家定。1582年安土二の丸留守居衆。<信長様の佐久間信盛等の重臣粛清政策の一貫か?>

⇔▽雲林院* (*)うじい・(瀧川)・兵部少輔。工藤家一家。北伊勢衆。出羽守の息。瀧川一益(一門or本人)の娘婿。1568年主・北畠具藤を追放、長野信包に臣従する。1580年に父とともに追放される。のち織田信長直属の馬廻衆に抜擢される。<矢部家定の計らいで、信長様直参に復帰。>

▽野呂* (*~1580)長門守。雲林院家の家臣。1580年長野信包により誅殺される。

中尾* (*)権頭。工藤家一家。1568年主・北畠具藤を追放、長野信包に臣従する。<「本能寺の変」に寺に駆けつけ討ち死にする中尾源太郎あり。一門か。>

中尾* (*)新左衛門。工藤家一家。長野家家臣。北伊勢衆。1568年主・北畠具藤を追放、長野信包に臣従する。1576年織田信長から忠勤を賞される。のち秀吉に出仕。1600年に失領。

草生* (*)与市左衛門。工藤家一家。北伊勢衆。長野信包の家臣。草生城主。

乙部政直 (*)勘解由。北伊勢衆。長野信包の家臣。<先祖は足利尊氏に従った伊勢の豪族。><1567~68年に乙部藤政が織田に備え渋見築城。>

▽進藤* (*)乙部・源次郎。北伊勢衆。長野信包の家臣。信長叔母の婿に迎えられる。信長の勘気を蒙り改姓する。<六角家臣の進藤家が伊勢とも交流があったようなので(六角氏の北伊勢経営)縁戚ゆえに進藤を姓としたのかもしれませんね。>

家所* (*)主馬助。北伊勢衆。長野信包の家臣。

<信包の軍団・近江甲賀衆> 伊賀侵攻に武功。

多羅尾光俊 (1514~1609)四郎兵衛・四郎右衛門・入道道賀。伊賀・信楽の豪族。光吉の息。1574年福富秀勝、毛利長秀とともに多聞山城城番。長野信包の家臣。1582年息・光雅が家康一行の「伊賀越え」に従う。<最初、信長側近かもしれません。>

多羅尾光太 (1552~1647)彦一・彦市・久右衛門・左京進。光俊の息(次男)。伊賀・信楽の豪族。長野信包の家臣。娘が羽柴秀次の側室となり、1595年「秀次事件」に連座し失脚。のち家康に出仕。

山口光広 (1563~1647)多羅尾光広・藤右衛門・主膳・光孝。多羅尾光俊の三男。伊賀・信楽の豪族。織田信長の命により山口甚助・長政の養子。山城宇治田原城主。1582年変後、家康一行の「伊賀越え」に従う。のち家康に出仕。


<個人的感想> 信包は、信長様の弟達の中では信長と一番相性が良いみたいです。

伊勢長島一向一揆では、信広以下の連枝衆がまるまる戦死しますが、信包は生き残っているのは何故なのかなあ~と。

信忠、信包、長益はどこか別の場所に陣取っていたのでしょうか。

 伊賀侵攻では信忠は参加していませんが、兄である信忠が弟の信雄の総指揮の配下に加わることはできないので、代理として信包が信忠軍団を率いて参戦していたのではないのでしょうか。

 そして信長・信忠が伊賀平定後に、信包・信雄の働きぶりと伊賀の名所観光の為に「伊賀入り」をしたのではないのでしょうか。

信長・信忠は何もしていないことになっていますが、傘下の軍団は、伊賀攻めに参加していたと考えたほうが良いと思います。

 

甲州乱入に北側からの迂回軍として乱入した金森軍団

越前(大野)金森長近の軍団

 (甲州乱入に臨時編成:飛騨口攻撃軍)

 <金森軍団が北陸道方面軍から独立し、飛騨口から「甲州攻め」。金森長近は、第二の秀吉的な武将なのでは。>

 ○信長からの与力:小軍団長として独自(信長の勅命)の軍事活動が見られる者。 

金森長近 (*1524~1608)(土岐)・五郎八・可近。土岐一族。大桑(大畑?)定近の息。近江の金森の豪族。斎藤道三の娘婿(信長と義兄弟)。安藤守就の妹婿。蜂屋頼隆と同郷。兄・政近の跡職を継承。織田信長に仕え、1559年信長に従い上洛。信長の元・赤幌衆。のち越前大野城主。1579年飛騨を与えられる『武家事記』。後年秀吉の命で飛騨に乱入し、独力で姉小路家を滅ぼす。のち飛騨高山城主。息子の忠次郎・長則は織田信忠に仕え「二条御所」で討死。<1524年生まれというのは兄の出生年との勘違いでしょうか。信長の小姓選出の赤幌衆でこの出生年はおかしいです。姉婿に佐藤秀方。>

金森政近 (*)長近の兄。土岐一族。大桑定近の息。近江の豪族。弟・金森長近が跡職を継承。

金森政秀 (*)長近の弟。土岐一族。大桑定近の息。近江の豪族。<近江金森に所領がったというので、そちらの在地の家として居残っていたのかもしれませんね。>

<長近の一門衆>

▽金森一為 (1560~1579)甚七郎。織田信忠の小姓。佐治新太郎との口論で生害。

▽金森長則 (*~1582)忠ニ郎・甚三郎。織田信忠の小姓。二条御所で戦死。

▽金森義入 (*~1582)信長小々姓、のち織田信忠の小姓。二条御所で戦死。

金森可重 (1558~1615)長屋・(長尾?)・喜蔵・出雲守。長尾景重の息。遠藤慶隆の娘婿。那古屋高久の娘婿。江間輝盛の娘婿。1582年金森長近の養子。1585年養父とともに飛騨平定に軍功。息に金森重近。増島城主。

長屋長光 (*)金森・(長尾?)。金森可重の弟。美濃国上有知を領する。跡職がおらず収公される。

<金森長近の軍団・美濃衆> *信忠軍団からの与力

長屋景重 (*~1592)(長尾?)・信濃守。美濃板取の豪族。長屋重景の息。佐藤家と抗争を繰り返す。金森長近に嫡男・可重を人質に送る。1592年佐藤秀方の急襲により落城自害。田口城主。

⇔○*佐藤秀方 (*~1594)六左衛門・隠岐守・秀信・正秋。佐藤清信(秀信)の息、金森長近(室は道三娘・信長相婿)の姉婿。1569年伊勢「大河内城攻囲」、1570年8~9月三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1570年9~12月朝倉軍との近江「坂本の対陣」に従軍。織田信忠軍団所属。1575年「長篠の合戦」に従軍、金森長近・酒井忠次とともに鳶巣山城を奇襲。美濃国鉈尾山城主。1578年9月斎藤長龍与力として飛騨出征。「本能寺の変」に際して金森長近、日根野弘就と連絡を取る。のち飛騨平定戦に参加し、飛騨国荻原諏訪城主。2万石。のち信孝に仕えるも親秀吉派。息に方政。<父も六左衛門(*~1570)と称す。>

○*遠藤慶隆 (1550~1632)(東)・西遠藤・新六郎・左馬助・六郎左衛門・但馬守・盛枝。東一門衆。斎藤氏旧臣、遠藤氏惣領家。遠藤盛数の息。弟に慶胤、慶直。妻は安藤守就の娘、姉小路良頼の娘。養父は長井道利。1562年父の死により家督。1564年従兄弟の胤俊に惣領を奪われる。義父・長井道利の後援で復帰。斎藤氏滅亡後、織田家に臣従。1570年「江北出征」、「姉川の合戦」に従軍。1570年森可成から所領安堵の書状。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。1572年5月頃から武田晴信の調略をうけていた。1574年斎藤長龍が益田郡田口氏を先陣に郡上侵攻。織田信忠軍団所属。美濃郡上城主。親信孝派。<ひそかに武田家に通じる。娘婿に山内一豊とも。近江浅井家臣若宮氏と、側室は何人も持てるのでどちらもありか?>

▽粥川* (*)甚右衛門。遠藤慶隆家臣。1564年慶隆(盛枝)兄弟を救出し鶴尾山城に籠城。1574年下呂の田口氏、蟹沢氏を船野山城に滅ぼし、沓部領主。

▽餌取* (*)六右衛門。遠藤慶隆家臣。1564年慶隆(盛枝)兄弟を救出し鶴尾山城に籠城。

▽鷲見* (*)弥平治。1567年斎藤氏の没落に呼応し謀反。のち飛騨出奔。

▽別府* (*)四郎。1567年斎藤氏の没落に呼応し謀反。のち飛騨出奔。

▽別府* (*)弾正。1577年謀反。

▽畑佐六右衛門 (*)1569年5月三木自綱、気良佐藤氏と結び謀反。安養寺の参戦により敗北のち出奔。

▽遠藤* (*)加賀守。東家の元家老。東遠藤家兄弟に武田家への内通を勧める。

▽遠藤* (*)新左衛門。西遠藤家・慶隆の家老。武田家への使者。

○*遠藤胤安 (*~1587)(東)・東遠藤・吉左衛門。東一門衆。斎藤氏旧臣、胤縁の次男。兄・遠藤胤俊が1570年11月近江堅田において戦死し、家督相続。織田信忠軍団所属。のち親信孝派。<ひそかに武田家に通じる。>

▽*遠藤胤基 (1548~1593)(東)・東遠藤・大隈守。東一門衆。斎藤氏旧臣、胤縁の三男。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。織田信忠軍団所属。親信孝派。<ひそかに武田家に通じる。>

▽吉田* (*)左京進。胤基家臣。1574年田口氏の侵攻を防ぐ。

根尾清昌 (*~1582)右京亮。美濃国根尾谷の領主、清馨の息。兄に清成(氏家直昌家臣)。根尾城主。1574年越前侵攻に軍功。越前国小山七郷公文跡職を得る。1582年「本能寺の変」に戦死。息に宗胤。<旧南朝勢力。代々、右京亮か。市介、五郎兵衛と共に信長家臣。庄右衛門清長が金森家家老となる。>

根尾清長 (*)庄右衛門・左近将監。清昌の弟。金森長近に出仕。1582年遠藤氏に攻められる。

⇔※▽徳山則秀 (*)五兵衛。根尾氏一門。柴田勝家与力。のち佐久間盛政与力。

<金森長近の軍団・越前衆>

▽*↑野治* (*)宗八。元・越前朝倉家の臣。越前大野城主の金森家の与力。

石徹白長澄 (*)いとしろ・彦右衛門尉・長住・種信。白山権現社の神職。飛騨と越前大野郡の豪族。1573年朝倉家の滅亡に伴い織田家に従う。1582年本能寺の変により三木頼綱と抗争。1584年金森長近から飛騨の情勢を打診される。<金森長近との関係がいつからつづいているのか、飛騨衆の動きを知る貴重な資料が白山には残されているかもしれませんね。飛騨国人がほとんど滅びたことが、別喜広正や信忠さんの歴史にとって痛いですね。>

<金森長近の軍団・飛騨衆> ○与力「城持ち」大名

⇔姉小路良頼 (1520~1572)三木良頼・飛騨守・中納言。三木直頼の息。1554年家督相続。1559年「姉小路」を自称。北飛騨を支配する江馬時盛と抗争。1564年武田家の後援を得た江馬氏に敗北する。

姉小路自綱 (1540~1587)三木・光頼・頼綱・左衛門佐・左京大夫・大和守・久安・休庵。飛騨高山城主。飛騨国司・良頼(三木嗣頼)の息、斎藤道三の娘婿(織田信長の義兄弟)。父の代より名門・姉小路の子孫と称す。1572年11月家督相続。反武田として活動し織田・上杉と結ぶ。飛騨桜洞城主。1578年9月斎藤長龍の遠征に従う。1579年飛騨松倉城を築城。1583年飛騨の国人・江間氏を打倒する(1582年カ?)。1583年弟・三木顕綱、子息・姉小路信綱を誅殺する。1585年金森長近の進攻により降服。京都に蟄居する。

三木顕綱 (*~1583)豊後守。飛騨衆。鍋山安室の養子となる。飛騨鍋山城主。兄・自綱により暗殺される。

姉小路信綱 (*~1583)自綱の息。飛騨衆。信長の「信」の一字を拝領。三木顕綱の謀反に連座し、父・自綱に討たれる。

小島時光 (*~*1585)飛騨国の土豪。飛騨衆。雅秀の息。三木自綱の同盟者。諏訪城主・江間輝盛を攻撃する。1585年金森長近の進攻により失領。

塩屋秋貞 (*)筑前守。飛騨国尾崎城主。1564年武田家重臣・山県昌景の攻撃を受け尾崎城から退去。1568年上杉景虎の攻撃を受け蛤城から退去。

内ヶ嶋氏理 (*~1588)飛騨白川郷の領主。飛騨国司姉小路家を通じて本願寺一向一揆と関係が深い。幕府直轄の金鉱山を経営する。幕府崩壊後独立領主、領地から鉄砲の火薬・硝石を産出する為、巨額の富を得るという。当初本願寺の要請で美濃国遠藤氏と共に親武田路線。信玄の死後、織田家の勢力拡張と共に南飛騨の豪族・三木氏とともに織田家に臣従する。1578年上杉謙信の死後、佐々成政与力として越中に出陣。1585年金森長近の飛騨侵攻に降服。秀吉に出仕する。1588年震災により死亡。

 1575年「長篠の合戦」搦め手軍担当の旗頭、1582年「甲州乱入」に信忠与力として飛騨口から信濃乱入。北信濃にて上杉牽制。

<個人的感想> 柴田勝家の監査官ではあるが、織田信忠の補佐官(遊撃軍団長)でもあったのでは?

 長近の子供達は織田信忠の側近として育ち全て散ってしまいます。織田家に近すぎて、秀吉・家康によりその存在がうすくされてしまったのでしょう。次代の天下人・信忠の側近は秀吉・家康により冷遇され時代の片隅に追いやられています。また生き残るためにも、過去を捨て事績を隠滅するようなこともあったのかもしれません。

 「甲州乱入」に飛騨軍を統べるということは元々旗頭の地位にあり、「変後」に三木氏が独立。柴田勝家に付いた金森は柴田滅亡後に秀吉に従い、秀吉の指示で再度、佐々と同盟を結ぶ飛騨国へと進んだのではないのでしょうか。

斎藤長龍(利治)の軍団 

 (越中乱入に臨時編成:飛騨方面軍→信忠近衛軍・美濃衆旗頭?)

織田信忠 軍団からの北陸方面軍(柴田勝家軍団)への増援軍  ○与力「城持ち」大名

 美濃国要所図

濃姫・奇妙丸を斎藤家血筋正統の継承者とし美濃武士を従える

斎藤長龍 (*~1582)(佐藤)・新五・利治。斎藤道三の息。織田信長の義弟。東美濃加治田城主・佐藤紀伊守・右近親子の養子・跡職。織田信忠軍団に所属。1578年9月東美濃・飛騨方面から越中の上杉を圧迫。毛利秀頼、佐藤秀方、坂井越中、森長可等が追加の援軍。上杉謙信の武将・河田長親を撃破する。加治田城主。息に斎藤義興、市郎左衛門。娘婿に速水時久。<斎藤長龍(利治)と斎藤利三は、昔からの斎藤家内紛の因縁があるかもしれませんね。><越中侵攻の軍功が絶大すぎて危険視されてしまったのでしょうか。それ以降にチャンスが与えられません。もしくは地方の軍団長としてより、役に立つものとして信忠旗元「美濃衆」のリーダーとして身近に置かれたのかもしれません(信長様の惟住長秀や福富秀勝のように)。一門の斎藤利堯が本能寺の変後の美濃稲葉山城を牛耳るように、信長様の馬廻・稲葉家よりも実質的に信忠美濃衆の旗頭だったんじゃないでしょうか。勝者の歴史に抹殺されていないでしょうか・・。>

*斎藤利尭 (*~1582)玄蕃充。斎藤長龍(利治)の一族。稲葉良通の娘婿。長龍の留守居役。「本能寺の変」の混乱に美濃岐阜城を占領する。美濃に帰還した森長可に降伏。のち病死とも。<長龍が頼んで家老になってもらったとか、実兄ならば佐藤紀伊守が長龍(利治)ではなく利尭を養子にしてもよかったでしょうし、別家の斎藤なのでは。「変」後に逸早く斎藤利三と呼応しているようですし、利三と近い斎藤氏なのでは?。>

▽長沼三徳 (*~1600)三徳斎。佐藤家家臣。斎藤長龍に仕える。斎藤長龍の遺児を養育。織田秀信に出仕させる。息に藤治兵衛。

▽西村* (*)治郎兵衛。佐藤家家臣。斎藤長龍に仕える。斎藤長龍の遺児を養育。織田秀信に出仕させる。

▽梅村* (*)岸・良澤。元・鵜沼大沢家家臣。佐藤家家臣。1565年織田信長へ内通する使者。

▽梅村* (*)左平衛次。佐藤家家臣。のち森家に出仕。

▽白江* (*~1584)権左衛門・庄左衛門・喜左衛門。佐藤家家臣。のち森家に出仕。

▽横井* (*)兵助。佐藤家家臣。のち森家に出仕。

⇔▽佐藤信則 (1495~1577)入道道本。加茂郡の豪族。佐藤忠能に従う。息に堅忠。揖深城主。

▽佐藤堅忠 (1548~1613)勘右衛門・駿河守・堅成。信則の息。父に従い斎藤長龍(利治)、利尭に出仕。息に継成、吉次。

▽湯浅* (*)讃岐・新六。加茂郡山之上の豪族。佐藤忠能に従う。1565年軍功により斎藤長龍(利治)に「新」の一字を与えられる。

⇔○神保長住 (*~*1583)越中守。元・越中守護代、神保長職(*~1572)の息。神保家嫡流。親武田派の椎名康胤と協力し、上杉派の父・長職、小島職鎮と対立し出奔。家督は弟の総二郎・長城が継承する。1578年から弟・長国らと越中に入国し旧臣を従える。富山城主。1580年柴田軍に救援される。1582年小島職鎮・唐人親広に幽閉され失領する。その後の事跡は不明。<織田信長の妹婿は神保長住で、1582年の失領の不手際で稲葉家に再度嫁入りしたのでは?>

○神保氏張 (1528~1592)(惟宗)・宗五郎・安芸守・氏晴。神保氏重の息(能登畠山一族出身とも)。織田信長の妹婿(離縁後は稲葉貞通の室)。宗家神保氏の家臣。上杉輝虎臣に臣従する。1577年は上杉謙信方。1578年謙信の死後、神保長住が佐々長秋とともに越中に乱入。これ以降に織田家に降り、佐々成政の与力となる。守山城主。嫡男・氏興は佐々成政の養子となる。のちに徳川家旗本。

⇔○▽佐々長穐 (1530~1615)権左衛門・政祐・政綱・政勝・政縄・長秋。佐々成宗の息。1564年上杉謙信への使者として越後に派遣される。直江大和守・景綱が取次ぎ。加賀大聖寺・日屋城主。佐々成政とは別系。加賀退却後、再び神保長住を後援する越中攻略の先遣武将に抜擢される。

<美濃衆> (代官)佐藤秀方 1578年9月斎藤長龍の飛騨・越中・能登遠征後に支配を浸透させたと思われる。(城主クラス)

毛利秀頼 (*1540~1593)斯波・河内守・長秀。南信濃守護。斯波氏一族。斯波義統の息。1554年幼少の折、清洲城落城の際に、信長馬廻の毛利秀高に一命を救われる。のち信長の赤幌衆のひとりとなる。1560年5月「桶狭間の合戦」に軍功。1570年「野田・福島の合戦」に敵将を討取る功名。信忠軍団としては、1574年頃からその与力となり、1575年美濃「岩村城攻略」に軍功。1582年「甲州乱入」に従軍。信濃伊奈1郡を与えられる。信濃飯田城主。<清洲城から救助した、二代目・毛利十郎が毛利新助の事かそうではなく別人の事なのかが問題。変後、信濃で旧領を回復したところが素晴らしい。>

森 長可 (1558~1584)森可成の息。織田信忠軍団に所属。1582年北信濃方面から越後の上杉景勝を圧迫。<元同僚の大須賀胤高部隊により討たれます。お互いを知るゆえに長可が突撃してくることが判っていたのかもしれませんね。>

⇔▽林 為忠 (1556~*)(稲葉)・小次郎・長兵衛・常吉・入道道休。林通安の息。室は塙義元の娘。森可成、長可の家老。同僚の各務元忠とともに高遠攻略に軍功。義兄弟に森可成、井戸宇右衛門。息に直親、娘婿に各務元峯。信濃飯山城主。<井戸氏は、大和の井戸氏との婚姻。これは大和守護となった塙家と関係ありでしょう。>

⇔▽井戸* (*~1603)宇右衛門。大和井戸氏。林通安の娘婿。為忠の義兄弟。斎藤長龍の家老。弟に伝三郎、彦五郎。「変」後は利堯に従うが、利堯病死後は森家に出仕。のち森家の客将・那古屋山三郎(織田九右衛門)と対立。葛尾城主。<森家の大和との縁。塙と森で縁戚ならば、原田直政の大和守護の時期に結ばれた縁でしょうか。>

佐藤秀方 (*~1594)六左衛門・隠岐守・秀信・正秋。佐藤清信(秀信)の息、金森長近の姉婿。1569年伊勢「大河内城攻囲」、1570年8~9月三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1570年9~12月朝倉軍との近江「坂本の対陣」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍、金森長近とともに鳶巣山城を奇襲。美濃国鉈尾山城主。1578年9月斎藤長龍与力として飛騨出征。飛騨平定戦に参加し、飛騨国荻原諏訪城主。2万石。「本能寺の変」に際して金森長近、日根野弘就と連絡を取る。のち信孝に仕える。親秀吉派。1592年金森可重の父・長屋景重を討つ。<父も六左衛門(*~1570)と称す。事績が混同されることも多いようです。><信忠、信孝に近いことにより、秀吉からは目をつけられて苦労されたことでしょう。>

坂井* (*~1582)越中守。信長初期の猛将・坂井政尚(*~1570)の次男。信忠直参となる。若手の将校として期待される。斎藤長龍与力として飛騨出征。1582年「甲州乱入」。二条御所で討死。

稲葉直政 (*)彦六。稲葉一鉄の息。織田信忠軍団に所属。1582年森長可の援軍として北信濃に出陣し活躍。<信忠に近いことにより、次ぎの天下人・秀吉からは目をつけられ(危険視され)、秀吉を気遣う一門の中では邪魔者扱いされたことでしょう。信忠関係者は次代の織田政権の担い手からつきおとされ、悲惨な転落人生です。>


<個人的感想> 斎藤長龍(利治)は佐藤紀伊守の跡(領地)を継いで、美濃の重鎮だったと推測されます。

 成長してからは信長様の岳父・斎藤道三の一門として重要な地位にあったんじゃないでしょうか。明智光秀に対しても元主筋として影響力を有していたんじゃないのでしょうか。

 関西の抑え、瀧川一益の親戚・池田恒興・元助の一族。

信忠軍団に編入された摂津衆

南畿方面軍所属

(遊撃軍団・旗頭)荒木村重(1575~1578)=1578~79年解体。

 摂津遊撃軍団の総指揮権は織田信忠に(1578~1580)。

 後に摂津衆は 織田信忠の家老・池田恒興の与力に(1580~1582)。

 信忠軍団は畿内の平定にも活躍。副将の池田恒興が摂津担当となります。惟住・蜂屋・羽柴・惟任がその周りを固めます。池田恒興が瀧川一益の縁戚である点、柴田勝家から原田直政に引き継がれた事業を、踏襲しているような引き継ぎです。

ここから先は

17,139字 / 6画像

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?