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天下布武その5 織田信長、信忠の一門(連枝)衆

織田信長、織田信忠の系譜と一門(連枝)衆

<織田信長の兄弟>

赤文字は信長家督前後に死亡<信長の意向によるものか・・>。
(西三河 安祥織田家)
織田信広 (*~1574)津田・三郎五郎・大隈守。織田信秀の長男。1540年三河国安祥城主。1548(1549)年今川家に捕虜になる。松平元康と人質交換で尾張に戻る。信長に対して1557(弘治3)年美濃の斉藤義龍(もしくは龍興)と結び反逆するが、降服。1570年「比叡山攻囲」。美濃岩村城城番。1573年足利義昭との和睦交渉を成立させる。1574(天正2)年「伊勢長島」に戦死。娘は丹羽長秀の室。<本願寺一揆おそるべし。結局、三河の安祥の所領は誰の手に・・・。><織田家嫡流の「広」の名を名乗っているということは・・。それに、伊勢神宮に寄進し信秀が朝廷から拝領した官位名「三河守」は、信広に与える為のものだった気がするのですが・・。勝者の歴史というやつで消されたのでしょうか。>

⇔▽佐久間重行 (*~1549?)九郎左衛門・入道全孝。尾張衆。1533年三河加茂郡広瀬城主に抜擢される。1540年~1548年安祥城主・織田信広の三河経営に協力。1549年岡崎城主・松平広忠を暗殺する。息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直が継承。<織田信秀の命で三河支配に配置されるか。信長の兄の三河安祥城主・織田信広を後見していたのかもしれませんね。><勢力基盤の重複する桜井松平との関連がきになるところです。><1533年の足利義晴の近江幕府と、足利義維の堺幕府の軋轢が、三河の局地戦に波及しているような気がしますが・・。>

(那古屋織田家)
⇔ 織田信長 (1534~1582)上総介・第六天魔王。母は土田政久の娘(報春院)。織田信秀の嫡男。原田直政の妹婿。土方雄久の娘婿。1547年に吉良大浜初陣。1548年平手政秀の才覚により斉藤秀龍娘婿となる。1551年父・信秀の死により織田家相続。1556年「長良川の合戦」に義父・秀龍が義龍に討たれる。1560年「桶狭間の合戦」で今川義元に勝利。 <池田政秀の娘・養徳院が乳母。養徳院は池田(瀧川)恒利の室。><織田信長は父が畿内の三好政権を意識しての「長」なのではないでしょうか。反三好的な伊勢の情勢から、三好家からも織田と結んで挟み撃ちにするという外交政策があったのではないのでしょうか。尾張統一直前に尾張守任官を目指しての信長の上洛は、将軍・足利義輝に会うよりも三好長慶に会う為の上洛なのではなかったのでしょうか。足利義輝は斎藤義龍を重用しているし、上杉謙信を重用しているし、信長は六角や三好に近い立場だったのでは。六角が中立なので上洛の道が安全だったのでは・・。>

(末盛織田)
織田信行 (*~1558)土田・勘十郎・武蔵守・(織田信勝)・建成・信成・達成。母、土田氏。織田信秀の息。1556(弘治2)年兄に叛心あり、柴田勝家の讒言により信長の命で黒幌衆の筆頭・川尻秀隆に誅殺される。津田信澄の実父。末盛城主。<親父殿から佐久間盛重、柴田勝家と織田家中きっての猛将を付属されているわりに津々木氏を重用する。><晩年は弾正忠達成を名乗り兄と対抗したようです。><達成と名乗っているのですが、一時的にでも大和守・達勝の養子となって、兄の信長よりも主筋の養子として自覚することがあったりしてないでしょうか(妄想)。それで信友の斯波「武衛」殿の謀殺事件に、信勝の軍から柴田隊が派遣されたのでは。><もしくは因幡守家・信友が主家を相続したので、玉突きで因幡守・達広の跡を継承したとか。><名前が信行から信勝になったかと思えば否定されてまた信行に出戻りしました。武田重臣の馬場信春も信房になったり違うとなったり。歴史ってなかなか一筋縄ではいかないものなのだなという事がわかりますね。これからの皆さん、まだまだ研究していけますよ。>

↓織田信時 (*~1556)喜蔵・安房守・秀俊。織田信秀の息(養子説も・実父信康)。守山城主。村井貞勝と縁戚。家人・角田新五郎に討たれる。<娘は池田恒興の養女となり、飯尾敏成(信宗の息)の室。のち下間頼龍の室という。

織田秀孝 (1539~1555)喜六郎・信孝。母、土田氏。織田信秀の息。守山城主・織田信次家臣に誤殺される。信勝が怒り守山に兵を繰り出し、信次逐電。

⇔織田信包 (1543~1614)長野・三十郎・上野介・老犬斎・信兼・信良。織田信秀の息。1568年北伊勢の豪族・長野家の養子。信包を補佐し、伊賀を攻略する。伊勢河芸郡・上野城主。秀吉の臣下となる。<信長兄上に忠実です。>

織田信治 (1544~1570)野夫・九郎。織田信秀の息。尾張一宮野府城主。1570年近江国横山城攻略に参陣。9月近江宇佐山にて森可成とともに戦死。26歳。息は柘植正俊。<志願して前線に出たために討死、惜しい。>

織田信興 (*~1570)彦七郎・信与。織田信秀の息。伊勢長島に対した、尾張小木江城主。1570年11月、浅井・朝倉の攻勢により手薄となった状況で、伊勢一向一揆に居城を攻略され自害。<本願寺一揆おそるべし。>

織田秀成 (*~1574)津田・半左衛門・彦七郎。織田信秀の息。兄・信広とともに「伊勢長島」に戦死。<本願寺一揆おそるべし。>

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今川氏真の降伏後、1569年7月~9月の状況。<二俣城の中根氏は最前線で重要な存在。桜井松平と縁戚でもある野田(菅沼)定盈も、織田信光繋がりで重要な縁なのでは。武田・織田に両属する勢力はいずれどちらかを選択することに・・。>

織田信照 (*)中根信照。織田信秀の息。遠江国の豪族。遠江二股(俣)城主・中根忠貞養子。1581年京都馬揃えに参加。沓掛城主。<その存在は徳川領に打ち込まれた楔です。><1572年に一度、中根一族の拠る二股城は武田信玄に攻略されます。その後の養子縁組でしょうか。>

織田長益 (1547~1621)源五郎・無楽斎・有楽斎・如庵。織田信秀の息。平手政秀の娘婿。利休七哲。1581年京都馬揃えに連枝衆で参加。1582年信忠付で甲州征伐にも参陣する。本能寺の変に際し織田信忠とともに二条城にいたが、京都から脱出する。織田信雄、秀吉、家康に出仕する。大和にて3万石。<信忠様を見捨てたこの武将は嫌いw 無楽でOK。 とついつい感情的になってしまいます。 近場にいた伊勢やら津田やら井戸やら筒井やら、二条城にかけつけなさいよお! ていうか水野もにげるなああ!!>

織田長利 (*1550~1582)又十郎・長則。織田信秀の息。1574年伊勢「長島一向一揆討伐」に従軍。1581年京都馬揃えに参加。1574年から織田信忠付の家老。二条御所で討死。娘は北畠信雄の側室。<将来、楽しみな武将が・・。>

[お市の方] (1547~1583)織田於市姫。1567年21歳にて浅井長政に嫁ぐ。1573年小谷落城後は、弟・織田信包の元に居住する。1582年柴田勝家と再婚。1538年北ノ庄城落城の際に自害。37歳。娘に茶々、お初、お江与。



(末盛城) 
織田信行(信勝・達成)の家臣団 

1557年清洲城中にて誅殺され家臣団解体。
<信長の弟・信勝が「達成」と名乗っているのですが、一時的にでも守護代・達勝もしくは、因幡守家の達広の養子となって、兄の信長よりも主筋として自覚することがあったりしてないでしょうか・・(妄想)。それでライバル信友の斯波「武衛」殿の謀殺事件に、信勝の軍から柴田隊が派遣されたのでは。信長様とも兄弟ではあっても微妙な立場での同盟関係とか。>
↑織田秀孝 (*)信勝の弟。叔父の織田信次の家臣・洲賀才蔵が身元を確かめずに無礼討ちした。<顔は知れ渡ってるはずですから、無礼討ちではなく、顔見知りどうしの「ケンカ」なのでは。>

⇔柴田勝家 (*~1583)権六。筆頭家老。織田信秀家臣。1555年斯波義統の仇討ちで「安食の合戦(中市場合戦)」、清洲衆との合戦に軍功。1556年「稲生の合戦」に織田信長軍に敗北し降服。再び叛意を抱いた信勝に疑念を持ち兄・信長に謀反を密告する。<俺が一番じゃないとだめなのだ!という嫉妬癖があります。プライドで生きてる武士です。>

⇔佐久間盛重 (*~1560)大学。次席家老。織田信秀家臣。信長弟、織田信勝老臣。1551年織田信秀の葬儀に信勝に従い参列。親信長派。信長と信勝の対立の中で1556年名塚砦守将。1556年信長派として「稲生の合戦」に橋本十蔵を討取る功名。1560年今川義元に対して「桶狭間前哨戦」丸根砦で討死。息子は奥山盛昭。のちの柴田勝家配下の猛将・佐久間盛政の叔父。<個人的には佐久間盛重の次ぎに書かれている佐久間次右衛門は山崎の信盛じゃなくて、五器所佐久間の誰かだと思います。><西三河に勢力を持つ佐久間家の代表。>

⇔佐久間* (*)次右衛門。三番家老。織田信秀家臣。<佐久間信盛とは別人のようです・・。普通併記してるとき坂井や林兄弟みたいな感じだとおもうので、次右衛門は盛重弟・佐久間盛次のことじゃないのかなあと思います。それか1560年「桶狭間戦」盛重の戦死後は五器所は佐久間与六郎・家勝が継承するようなので、家勝のことでは?>

⇔長谷川* (*)四番家老。織田信秀家臣。<長谷川宗兵衛と同一人物か?。><長谷川一族は織田信長に通じているようですね。のち側近・長谷川秀一を輩出する系統でしょうか。><藤原系の長谷川氏とすると同族に坪内、磯貝、村瀬氏がいるようです。>

⇔山田* (*)五番家老。織田信秀家臣。<山田綱定と同一人物か?。><目立ちませんが地力のある山田一族です。生駒家のように半商人なんでしょうか?山田氏は織田信忠の侍大将として伊勢長島に活躍します。>

⇔津々木* (*~1557)(筒木)・蔵人。織田信勝の側近となる。柴田勝家と対立。<織田信勝さんの一番のお気に入りです。柴田勝家が嫉妬します。柴田家と張り合うほどの勢力を持っていたのでしょうか?。>


<織田信忠の兄弟衆> 

緑文字は信忠活躍(本能寺の変)後の武将。
織田信正 (1554~1647)(塙・原田・村井)・帯刀・主膳・大隈守・信正・重勝。織田信長の庶子。母は原田直政の妹。村井貞雲の娘婿。1585年出家して見性軒。94歳。<村井貞勝と縁戚となるらしい。そのわりに実在したかわからない伝説の人物。原田直政の姉妹は織田信秀の側室となっているので、信長の室というのもおかしな話です。②回目の登場。>

織田信忠 (1555*57~1582)奇妙・勘九郎・秋田介。織田信長の嫡男。母は生駒氏。1575年に信長から家督を譲渡される。摂津豪族、塩川長満の娘と婚姻(相婿に池田元助)。初期後見人に川尻秀隆、池田恒興。「武田攻め」後見人に川尻秀隆、瀧川一益。京都二条(御所)城に自害、28*26歳。<出生年が不明、感覚的には 区切りよく1555年で計算してます(555=ファイズだw)。1557年とすれば信雄・信孝・信澄とも年齢は殆ど変らないわけで、それでも嫡男として、評価されている訳ですからキラリとした何かが備わっていたと推測されます。側室に稲葉氏(秀信の母)がいるとも。結局、稲葉家内紛がらみで土岐家も 斎藤家も、織田家も散ったのか? 稲葉一族よ・・・。>

織田信雄 (1558~1630)北畠・茶筅・三介・具豊。織田信長の息。母は生駒氏。1569年南伊勢の豪族、北畠具房に養子に出される。1571年北畠具教四女と婚姻。瀧川一益、織田信包の後見で伊賀を攻略する。<信雄と信孝が争わずに共闘していたら、織田家の天下は続いていたんじゃないかなあ・・・。>

織田信孝 (1557*58~1583)三好・神戸・三七郎。織田信長の息。母は坂氏。1568年北伊勢の豪族、神戸具盛の養子に出される。1582年義父・三好康長とともに惟住長秀が後見人。四国方面軍の将として阿波・讃岐攻略に向かう。摂津の陣中にて本能寺の変が発生。1583年信雄との相続争いに破れ自害、26歳。<野心がありすぎて、信澄の殺害、信雄と対立ということでしょう。>

織田勝長 (*~1582)遠山・武田・御坊丸・源三郎・信房。織田信長の息。東美濃岩村城主・遠山景任の養子となるが、武田家の人質となり武田家にて育つ、武田勝頼の養子とも。1581年勝頼から送り返され、1582年甲州征伐の際には兄・信忠軍の一手の将として甲州に乱入する。尾張犬山城主。二条御所に討死。<弟とされるが、秀勝よりも年長と推測される。><人質から無事生還したのに、運がついてるのか、ついてないのか(涙)。><武田勝頼の養子となっていたのなら武田を名乗らせてあげても許されるかな?子息・勝良は北畠信雄に出仕。>

織田秀勝 (1567~1585)羽柴・次・御次。織田信長の息。1576年秀吉実子の死亡の為、信長から秀吉夫妻の養子に送られる。中国方面軍で活躍。<羽柴秀吉と織田家をつなぐ貴重な人物でした。信長と寧々の親しい間柄から、寧々を後援するために信長様が養子に出したとすれば、織田の準一門となり、北陸戦線からの無断離脱も赦免され、軍団長となる機会を作ったのも寧々なのかなあと「内助の功」的な貢献度が考えられるんですけど、話しが纏まったのは1579年っぽいです。「本能寺の変」後に秀吉が主家の信雄・信孝をひきずり降ろしたのは秀勝の為とかであればよいですね・・・。長生きしてほしい武将でした。惟住長秀や池田恒興、堀秀政が秀吉に協力的なのは信長様の血をひくこの秀勝がいたからじゃないのでしょうか。>

織田信秀 (*~*1590)稲葉・大洞・三吉。織田信長の息。室は稲葉貞通娘(良通娘とも)。切支丹となる。朝鮮に従軍後、業病となり京都に没する。美濃揖斐領主。<織田信忠の側室も稲葉氏というから、未亡人となった兄嫁と再婚したのでしょうか。><織田家の天下が続けば、岡崎信康の死後、正式な後継ぎのいない(結城秀康を実子と認めていないとすれば)家康の後継者として、五徳姫の養子となって徳川家を継承するという話も出ていたかもしれません。>

織田信高 (1570~1602)小洞・藤十郎・左衛門佐。織田信長の息。母は高畑氏。室は佐々成政娘。氏家行広に養育される。

織田信吉 (1573~1615)酌・武蔵守。織田信長の息。母は高畑氏。

織田信貞 (1574~1624)人・藤四郎・雅楽助・左京亮。織田信長の息。母は土方氏(土方雄久娘)又は青山氏。埴原長久に養育される。

織田信好 (*~1609)長好・左京亮。織田信長の息。

織田長次 (*~1600)縁・長兵衛。関ヶ原で戦死。織田信長の息。


<織田弾正家からの婚姻者>

{死亡}[再婚] 茶色文字は敵対武将。紫文字は離反武将。
林 通村 (*)(稲葉)・佐渡守。尾張に渡る林氏。息に八郎左衛門・通安。娘婿に織田信定。孫に林秀貞。

林 通安 (*)(稲葉)・八郎左衛門。織田信定家臣。林秀貞の実父。織田信定の義兄弟。

⇔林 勝隆 (*)(稲葉)。織田信定家臣。林秀貞の養父。

小島信房 (*)織田信貞と結ぶ。娘婿に織田信秀、川口(河口)宗吉。

中根康政 (*)織田信貞と結ぶ。娘婿に織田信秀。

(織田信秀の義兄弟・織田信定の娘婿)1510~婚姻関係

⇔林 秀貞 (*~*1580)<稲葉・一柳>・新五郎・佐渡守・通勝。織田信定に出仕した林(稲葉)通安の息。林勝隆の養子。信秀、信長、信忠三代に仕える織田家随一の老臣。尾張沖城主。1531年飛鳥井雅綱に蹴鞠の弟子入り。1556年織田信勝を後援し、柴田とともに信長に叛した「稲生の合戦」に敗北。信長に赦免される。1562年1月松平元康と清洲会見。三河に同盟の答礼。那古屋城主。1568年上洛し京畿の政務に係る。1573年足利義昭との取次ぎ。1573年9~10月北伊勢「長島一向一揆」攻撃に従軍。1574年直江景綱との取次ぎ。1574年島田秀順とともに囲い安宅船を建造。1574年7~9月伊勢「長島一向一揆」殲滅戦に従軍。織田信忠に家督が譲られて以降は信忠の執事として重きを成す。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。1578年播磨「三木城攻囲」に従軍。1580年、信長に過去の失態(1573年伊勢一向一揆に敗北)を責められ追放。愛知郡狩宿を領する。<美濃の稲葉家とは河野氏を先祖とする親戚。稲葉一鉄の長兄、稲葉(林)通勝と混同されて、林通勝で一般的になったと考えるのが自然かと・・・。><信秀の父・信定の室は林氏のようです。信秀とは乳兄弟などの特別な関係なのかもしれませんね。>

⇔↑織田信安 (*~1591)三郎・伊勢守。尾張国北半国の守護代。岩倉城主。織田信定の婿。<信秀弟の犬山・織田信康が北側なのはこの縁から?><婚姻を契機に弾正忠家からの付家老として、犬山に信康が入ったとかないでしょうか。>

松平信定 (*)桜井・(織田)・与一・興一・次郎・内膳正。織田信定の婿。三河松平の一族。息子に松平清定。松平家中にあって親織田派。常に本家からの独立を目指す。<のちに柴田勝家の与力に松平さんがいるのはこの縁からか?><桜井松平氏が、那古屋の今川氏豊の直参だったとすれば、独立的な動きをするのも納得がいく感じがしますが。><一部の領地に重複関係がある佐久間家との関わりが気になるところです。>

⇔{遠山景任} (*)内匠助。織田信定の娘婿(信長の叔母)。東美濃の豪族。織田勝長を養子に迎える。美濃岩村城主。<東美濃関係の明智家とも、このルートで過去につながりがあるかもしれませんね。><信長の母方の土田(生駒)氏、東美濃と関連が深い坂井越中守家、美濃の支配者となった織田信忠と、その母(生駒氏)。なにか東美濃と特別な関係があるかもしれませんね。>

⇔[秋山信友] (*~1575)光家。甲州武田家の家臣。元・遠山景任の室と婚姻(政略婚)。実質、織田信定の娘婿。「長篠の合戦」後、織田信忠軍団に美濃の居城を攻略され、夫婦共に信長により死刑。<坂井越中の一門を美濃攻略の際多く討ち取ったらしいです。坂井さんの一門が東美濃にもいたということでしょうか・・。><信忠の下で武田に対抗していたのは川尻と池田。>

牧 諦賢 (*)斯波・真木・大和守。尾張守護・斯波氏の一族。織田信定の婿。<牧長義、牧長清・長正兄弟、長正の息・長勝とつづきます。牧長義、長清が織田家と婚姻関係。><織田家と牧家とは良好な関係のようですが、石橋家は尾張から追い出される様子です。>

橋本* (*)伊賀守。織田一門。信秀の養女として娘が神保氏張、稲葉貞通と婚姻。<謎の人物です。平手政秀の室が信長の鉄砲の師匠・橋本一巴の姉という事ですから、一巴の父にあたる人物でしょうか?。>

(織田信長の義兄弟・織田信秀の娘婿)1534~婚姻関係

織田信清 (*)(犬山)・津田・十郎左衛門・下野守・鉄斎。織田信康(*~1534)息。室は織田信秀娘(犬山殿)、織田信長の義兄弟。犬山城主。1558年信長の織田信安攻略に協力するが、1562年甲斐に出奔。犬山の中島・和田の両家老は信長直参となる。妹は織田信張の室。<岩倉織田家臣参照。息子・織田信益は安土の留守居を任されるほど信頼されています。信長様は以外に義理堅い?>

遠山直兼 (*)苗木・甚太郎・勘太郎・直廉・なおかど。東美濃の豪族。織田信秀の婿、織田信長の義兄弟。武田家との抗争の中で病没する。娘は信長の養女となり武田勝頼の室。美濃苗木城主。<織田信忠の家臣団参照。>

大橋重長 (*)(河口・川口・織田)・清兵衛・重定。津島社家。重一の息。祖父に貞安。尾張津島の豪族、三河にも勢力を持つ。河口(宗吉)家とも縁戚。織田信秀の娘(くらの方)婿、織田信長の義兄弟。子息・織田信弌は1581年京都馬揃えに参加。息に重賢、(織田)信弐、(織田)長将。娘婿に河村将昌。<大橋重賢も子息らしい。><伊勢湾の海運を握る豪族か。><南朝勢力の子孫で、共に戦った井伊家と縁が深い。婚姻関係では大河内家や斯波義郷との縁が有り、中根家、長田家、熱田千秋(藤原)家とも縁戚関係。斯波義達家臣団の中核を担っていた家門かもしれません。><大橋家が頭を取るまでは、堀田家が津島の社家筆頭だったようです。堀田道空が斎藤道三家臣なのは、大橋に対する反発心などでしょうか。>

⇔▽大橋重賢 (*)与右衛門。重長の息。恒川長政の娘婿。<大橋茂右衛門重賢とは別人。>

⇔▽大橋重賢 (*)茂右衛門。瀧川一益家臣。のち福島正則家臣。<与右衛門とは別人。>

⇔川口宗勝 (*)河口。川口宗吉の息。室に福富秀勝の娘。

織田信直 (1546~1574)又六郎・又八郎・(藤左衛門)・信時。織田信張の息。織田信秀の娘婿(栄輪院)、織田信長・池田恒興の義兄弟。尾張三奉行家のひとつ藤左衛門系の織田氏。尾張国小田井城主。1574年「伊勢一揆攻略」に戦死。息に信氏、忠辰。

織田信成 (*~1574)小幡・市之介・東市佐。織田信光の息。織田信秀の娘婿、織田信長の義兄弟。1555年父の死後家督、尾張国小幡城主。1571年「伊勢長島攻略」に従軍。1573年山城国「槙島城攻囲」に従軍。近江に従軍し、1574年「伊勢一揆攻略」に、弟・仙千代とともに戦死。弟の四郎三郎・信昌も相次いで死亡。子息、正信は織田信忠に従い「甲州乱入」。

⇔{佐治為興} (1553~1571*74)(織田)・八郎・信方・長宗。佐治為景の息。織田信秀の娘婿(お犬姫)。知多郡大野の領主、伊勢の水運の要衝を抑える。1574年伊勢「長島一向一揆征伐」に従軍し討死。妹婿に緒川城主・水野忠分(水野信元の弟)。23歳。息に中川秀休、佐治一成。22歳。<信忠の小姓に佐治新太郎。><伊勢湾の海運を握る豪族か。><津島・熱田につづいて重要な湊町だったのかもしれませんね。>

⇔[細川昭元] (1548~1592)聡明丸・六郎・信吉・信良・信元・右近大夫・左京大夫。管領家細川晴元の息。妻は元・佐治為興の室(お犬姫)。織田信秀の娘婿。<貴種です。信長主導による再婚です。>

⇔↓津田* (*)出雲守。織田信秀の婿、織田信長の義兄弟。<正体不明であります。津島大橋家の人物か?>

⇔飯尾信宗 (*1528~1591)(織田)・尚清・奥田城主。織田信秀の娘婿、織田信長の義兄弟。赤幌衆のひとり。信長親衛隊 柴田勝家が義兄弟。長谷川秀一が娘婿。息・敏成は池田恒興の娘婿。<年齢的に下方貞清・岡田重善達と同世代。織田信秀の元祖・赤幌衆に選抜されたのでは?>。

牧 長清 (*)斯波・真木・与三右衛門。斯波氏一族、下野守義長の息(牧大和守・長義とも)。母は織田信定の娘。春日井郡川村城主。織田信秀の娘婿(小林殿)となり、織田信長の義兄弟。のち愛知郡小林城主。1560年桶狭間に参戦。兄・牧長正は1572年味方ケ原に戦死、その息に牧長勝。

⇔津田元秀 (*~1582)九郎二郎・九郎左衛門・元嘉。織田信秀の娘婿、織田信長の義兄弟。1573年に任命された越前三奉行のひとり。のち信忠の奉行衆。息に亀熊丸。<柴田勝家の軍団参照。九郎つながりで、1570年に近江で討死した信長舎弟・九郎信治の系統カ><一門の中でも「使える(能力のある)人物」だったようです。>

⇔{神保氏張} (*)越中の豪族。織田信秀の養女の婿(橋本伊賀守の娘)。息に神保氏長。<信長様の越中計略に氏張は重要な役割を果たしているので、信長さんの意向での婚姻でしょう。佐々成政の家老として健在ですし、離縁して貞通さんの奥さんになる道筋がわかりません・・・。>

⇔[稲葉貞通] (1546~1603)美濃の豪族。元・神保氏張の室(橋本伊賀守の娘)を迎える。織田信秀の婿。息に稲葉秀方。妹は織田三吉(信秀)の室。<斎藤道三と織田信秀を結ぶ稲葉家。道三、信秀の両武将の一ノ家老が林(河野氏子孫)氏なのも不思議な縁です。>

斎藤秀龍 (*)道三。美濃国主。織田信秀の娘婿。織田信長は娘婿。1538年美濃国守護代・斎藤利良の守護に政権を握る。1542年頃に主の土岐頼芸を追放し、美濃国主。1543年・1547年の織田信秀の軍勢を撃退。1548年に和睦。1549年に濃姫の婿に織田信長を迎えた。息に斎藤左門。<斎藤家の家臣団参照。稲葉家にのちのち迎えられたのは、こっちに嫁いだ姫が再婚したんじゃないのでしょうか、同じ美濃国内ですし・・・。><和睦が成立した1548年代の話でしょうか。>

瀧川一益 (*1525~1586)織田信長の姉妹と婚姻という「続群書類従系図」。信秀の叔父・織田秀敏の孫、津田秀政を婿に迎える。信長の乳兄弟・池田恒興と縁戚。羽柴秀吉の家臣・中村一氏と同祖という。織田家六大軍団長のひとり。<池田恒興と縁戚でもあり、一門衆といっても不思議ではない関係です。>

⇔丹羽氏勝 (1523~1597)一色・源六・勘助・右近大夫。尾張岩崎城主。元・今川家家臣。後室は織田信秀の娘、織田信長の義兄弟。守山城主織田信次家老。<息子が氏次なのは、主君・信次から「次」の字を下賜されたからでしょうか。>

原田直政 (*~1576)塙・九郎左衛門・備中守・重友・正勝。柴田勝家の妹婿。直政の姉(妹?)は信長の室。織田信長の側近兼親衛隊・赤幌衆のひとり。(『武家事記』では赤の5番)。南山城守護。大和守護。柴田勝家と縁戚。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1574年山城国守護に就任。1575年河内国「高屋城攻略」に従軍、「長篠の合戦」で鉄砲隊指揮官。1575年大和守護兼任。1575年「越前一向一揆平定」に従軍。1576年「石山本願寺攻囲」に従軍。石山合戦で討死。原田直政の軍団<⇔織田信長の近衛軍のページを参照して下さい。織田信忠と南畿方面軍のページを参照して下さい。><光秀さんの妹が信長側室という話があるので、畿内は信長様の義理の兄弟の原田・明智の両将に懸かっていたという感じですね。><大和の支配に関わった柴田勝家が越前に転属されるということで、義弟の原田直政が引き継いだのかもしれませんね。>


(信長と義理の兄弟的な由緒のある人物)
 織田信長(1534~1582)の六大軍団長。

明智光秀 (*1528~1582)惟任光秀・十兵衛・日向守。信長の妻・濃姫と縁戚。美濃・斉藤道三の家臣。道三死後、美濃を脱出して諸国を流浪。越前朝倉家に出仕。朝倉義景家臣。越前に下向した足利義昭に従い、織田信長の元に案内する。織田信長に従い近江坂本城主。のちに丹波国の一職支配を任される。丹波亀山城主。<その家臣団は足利幕府衆・美濃衆・越前衆の第三の受け皿です。おそろしや。><光秀さんの妹(妻木殿)が、信長さんの側室として寵愛されていたかもということです。1581年妹の病死に光秀が落胆したとのこと、それ以降に信長との関係がギクシャクするようです。濃姫ルートと二重の縁があったんだなあ・・。><切支丹かも?という光秀にとって、信長様の乱れた私生活の行状が悪逆非道なのでしょうか・・・。>

金森長近 (*1524~1607)五郎八・兵部卿法印。斉藤道三(秀龍)の娘婿。織田信長の義兄弟。早くから信長に仕え、赤幌衆のひとり、柴田勝家の与力として北陸方面軍所属。子息は織田信忠の小姓。<早くから織田にいるということは斉藤義龍さんから逃げてきたのでしょうか。それとも濃姫付きで道三が信長に託した家臣団でしょうか?(お市に従う藤掛長勝のような関係・・。)>

斎藤長龍 (*~1582)利治。斎藤道三の末子か。美濃国加治田城主・佐藤忠能の養子となり東美濃を抑える。1582年「本能寺の変」に信忠を守護し戦死。跡職は斎藤利堯が継承。<織田信忠の家臣団参照。道三遺言の美濃譲り状を、末子が信長の下へ届けたとも・・。>

⇔池田恒興 (1536~1583)勝三郎・紀伊守・経与・信輝。瀧川恒利の息。母は養徳院。信長の乳兄弟。荒尾善次の娘婿。のちに摂津国の一職支配を任される。軍団長のひとり。織田信時の娘を養女にし、娘は飯尾敏成の室。<信忠さんの後見人です。この人たちが小牧長久手で戦死していなければ秀信さんの立場も安泰だったかも・・・。><瀧川一益がもし織田家の娘との婚姻関係があったのならば、より血縁での繋がりの太さが感じられます。>

⇔生駒家長 (*~1607)(土田)・八右衛門。尾張の豪商・生駒家宗の息。信長が妹(吉乃、はじめ土田弥兵治の妻)婿。信長正室の兄。はじめ犬山城主織田信清の被官。1558年「浮野の合戦」に従軍。1561年「森部合戦」に殊勲。1569年伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1570年「姉川合戦」に参戦。北畠信雄後見。伊勢長島城主。<織田信長の親衛隊参照。別名は、勝介・正之助?だったりしませんかねえ・・。のちに生駒一門は北畠軍団に配属。>

⇔小坂雄吉 (*)(小坂井)・孫九郎・雄吉。織田信忠・信雄の母方(生駒吉乃)の縁者。前野宗康の嫡男、小坂家に養子。弟に前野長康。岩倉城主織田信安の家老家。元・川並衆。1569年森正成とともに北畠信雄の守役。<松葉・楽田城の事件で小坂井氏が断たれる様子ですが、小守護代・坂井大膳と、名乗ることを辞めた「小坂井」の名字の関係も気になるところです。>

⇔森 正成 (*)甚之丞。織田信忠・信雄の母方(生駒吉乃の妹婿)の縁者。生駒家長、織田信長の義理の弟。小坂雄吉とともに北畠信雄の守役。<義兄弟の割に、原田直政のように重用されていません。>


(織田信忠義兄弟)1555~ 

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戦国時代、織田家の家臣団を特集です。

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