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不幸は地獄であり、ぬるま湯でもある

これを依存という。
結局はそういうことです。

生きづらく感じたのは事実。
しかし、それをどう解決するかは考えもしなかった。なぜなら最初の一歩がとても恐ろしく感じたからです。

失敗したらそこにかけた時間とエネルギーが無駄になる。
だけど、ここを恐れるばかりで何もしないままは、得られるはずのチャンスも成果もゼロのまま。

長い目で見れば、後悔するように思えます。

不幸の先から動こうとしなかったのは、
そこに慣れすぎてしまったから。
慣れ=安心
いわゆるコンフォートゾーン(安全領域)と化してしまい、動きを硬直化させたのです。

動かないことは苦しいけど責任を負わなくていいから楽。
その先から動いて自由になりたい思いはあるけど、そこで発生する責任の重さによる苦しみと比べたらやはり動かない方が楽。

そう、ぬるま湯に浸かった状態です。

わたしの場合、親をはじめとする人間関係の困難が続いたことで不幸に。
長期の引きこもりや短期離職もそう、知人・友人関係も短期で終了。
自分は何もかもダメでクズといった考えを強化させました。

それを繰り返し経験してるのに同じところを回るクセ。
これは、その途中で優しく接してもらえた成功体験が蜜の味に感じたため。
この味が刺激的だからもっと欲しくなる。

不幸はぬるま湯であり蜜の味。
依存性の高いものに見事はまったのです。

これを言い換えると、アルコールやニコチン、さらに違法薬物に並ぶほどの毒性。
いまは冷静にそう振り返ります。

幸せになる未来も想像できなかったわたしが変わった理由のひとつが、行動を起こしたことです。
はじめにカウンセリング、続いて心理学、
その次に人生を変えるコミュニティにnote。

移動先にいる人々は人生を真剣かつ楽しく生きている。
環境や状況が変わったことが後押しとなり、自由への歩みをようやくスタートして、気づけば苦しみの謎を次々見つけ、自己理解からの自分軸で生きる現在に。

少しずつ確実にステップを踏んだことにより、地獄でありぬるま湯だった不幸の沼から抜け出したのです。

悩むことに酔ってる?実は趣味じゃない?
当時こう聞かれたら全否定しますが、
いまはその逆です。
やはり、そういう側面はありました。

幸せになれたのは自分の力と、誰かの後押しがあったため。
共存とはこういうことかと理解できたとき、その幸せを体感できるようになりました。

こうしてnoteで言語化するのは、過去のドロドロを浄化させるためであり、誰かの後押しにという一方的な思い。

人を変えるつもりはありませんが、伝えることに意味があるのでは?
今後も投稿内容のことで自問自答は繰り返しますが、最後は自分を信じて外へ送り出す。

そのつもりで毎日書き続けています。

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