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地割れの中に落ちた人を責めますか?

地割れとは「日照りや地震などで、地面にひび割れができること。また、その割れ目」(デジタル大辞泉)のことです 。

何らかの理由で大きな地割れが起こり、たまたまその真上にいた人がその中に挟まれたとき、その不運を嘆くことはあっても「そんなところに立っているのが悪い」とか「落ちた者が悪い」とは誰も言わないでしょう。

しかし、不登校に関しては同様のことが言われることもあるのです。


そもそも不登校の最も根源的な原因は、社会の価値観と学校の価値観の間のズレが大きくなったために、二つの価値の間に生じた亀裂の中に落ちてしまうという「現象」なのです。

だから、私は「不登校問題」という言い方にどうしても強い抵抗感があります。
この言い方だと不登校(学校に行けないこと)が問題だと誤解されかねないからです。
問題は不登校そのものにあるのではなく、不登校によって苦しんでいる子どもたちがいるということであり、その苦しみが命や生き方にかかわるほどの重大な苦しみであるところにあるのです。

不登校はあくまでも「現象」なのです。
その現象を生み出しているのは、社会と学校の価値のズレです。
言い換えれば、学校が社会の変化に対応しきれていないために起こる社会現象なのです。

そう考えると、不登校現象に対して「本人がひ弱になった」とか「親の育て方に問題がある」とか「教師がしっかりと寄り添えていない」などと、犯人捜しをしたり、責任のなすりつけ合いをすることがいかに虚しいことかがわかります。

今は、子どもに関わるさまざまな立場の人が力を合わせて、亀裂に足をとられている子どもや地割れに中にたまたま落ち込んでしまった子どもをいかにして救い出すかを考えなければなりません。
それは、学校復帰を最終ゴールとしたり、至上命令のように考えたりする姿勢からは生まれません。

学校のシステムを変えていくのは、簡単なことではありません。
しかも、単に変えればいいというものでもありません。

人間尊重の精神を中心にして、ある種の哲学が必要です。
子どもたちを代替不可能な人格として捉える哲学に基づいて、学校教育を考え直す必要があります。

とにかく地割れが起こった時に、たまたまその真上にいて被害に遭った人を一方的に責めるような、非人間的なもの言いは絶対に避けるべきだと思うのです。
そして、不登校には必ずその子なりの意味があるはずだと周囲の大人が信じることから始めなければならないと思います。


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