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学校は必要か?

これまで、学校の制度疲労については何度か書いてきましたが、前回書いたようにこれだけ「学びの多様化学校」を増やそうという動きをみるにつけ、もっと本質的な問いが必要なのではないかと思うようになりました。

それが「学校は必要なのか」という問いです。
私は学校をなくせと思っているわけではありませんが、その意味を考えるために、一度思い切り疑ってみることは無駄ではないと思うのです。

学校は、勉強するところだ、私は若いころ先輩の先生に言われてきました。
今でもそう言っている人はたくさんいます。
いや、むしろほとんどの教員がどこかでそう思っているのではないかとさえ思います。

けれども、本当に学校はすべての子どもにとって「勉強する」場となっているのかと言えば、必ずしもそうではありません。
どちらかというと、勉強するところだという人の頭の中には、ある程度勉強ができる子どものイメージがあるのではないかと思うのです。

置き去りにされた子どもが、理解できない授業に無駄な時間を過ごしていることを思えば、学校は一部ぼ子どものためにだけあるようなものです。

「学校は社会性を身につけるところだ」という、いわゆるシチズンシップ的なことを目的とする人もいます。
確かに、仲間と一緒に何かをすることは人間関係が希薄になっている現代においては大切なことです。
しかし、それが校則を守らせるといった形の問題として考えられていたならば、社会性ではなく、強い者に従えとか、周囲に同調せよといった圧力にもなります。

そもそも、校則は必要なのでしょうか。
髪の毛を金髪にしてようが、ピアスをしていようが、ネイルをしていようが、勉強とコミュニケーションには関係ないはずです。

前回述べたように、こういう学校化は不登校の子が通う教育支援センターにまで適用しようとする人もいます。
本当に意味がないと思います。

制服も然りです。
制服を着ることに何か重要な意味があるとは思えません。
今年1月に被災した能登半島の学校が少しずつ授業を開始しているそうですが、そこに通う生徒に「制服を着なさい」とか「決まりを守らなければ学習効果が上がらない」などと言う人がいるでしょうか。

究極のところ大した意味はないのです。
能登半島の例が極端だと言うのなら、コロナ禍ではどうだったかを考えてみればわかります。
あのころは、防寒着を禁止していた学校の多くが許可しました。
教室の換気と暖房効果の関係で、防寒着がなければ教室が寒くてどうしようもなかったのです。
状況がほんの少し変われば必要のないルールが学校には多すぎると思います。

また、校則に関しては入試に影響すると主張する人もいますが、それを理由にすること自体が果たして教育的かという問題があります。
そもそも高校入試に、服装や髪の毛の色を点数化するようなことはあり得ません。
もしそんなことをしたら、人権問題です。

結局は、中学校と高校が共同して作り上げた「神話」なのです。
その神話を両者の校内の秩序を守る防波堤のようにしているだけなのです。
それでも、反抗的な行動を起こす生徒が多かったときは、まだ生徒の声は聴こえたのでしょうが、今のように、子どもがおとなしくなってくると、ただ黙っているだけで、我慢していることすら伝わりません。

服装や髪の毛の色を派手にするのは、何か不満があるからだという人がいます。
そういうことは確かにあると思います。
でも、それならなおさら、自由にしておいた方が、その子の気持ちの揺れが鮮明にわかるはずです。

やや、極端な話の展開になってしまいましたが、物事の本質を考えるとき、一旦極端なことを考えてみると、現状のおかしさが浮き彫りになるということはよくあることです。

学校を本当に必要なものとするなら、この視点は欠かせないと思うのは私だけでしょうか?

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