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1000字以内で解く学校の課題シリーズ いじめ加害者はどこにいったのか

いじめは、多くの尊い命が失われたことを考えるといまだ解決しているとは言えません。

ただ、今、不思議な現象が起こっています。
それは、被害者は増え続けているのにそれに見合うだけの加害者がいないのです。

普通、いじめる方が多数で1人を攻撃することが多いことを考えると、加害者の方が多くなってもおかしくはないのに実際はそうなっていません。

なぜ、こういうことが起こるのか。
一つは文科省がいじめの定義を大きく広げたことの影響です。
このことで認知件数が大きく増えました。
それは意味のあることですが、認知されたいじめの中には些細なもめごとも含まれるようになりました。
そうすると、加害者とされた側の保護者にしてみれば、「そんなことくらいで、いじめと言われるのは心外だ」と感じてしまいます。
そのために、加害を認めない人が増えているわけです。

もう一つは、軽微ないじめが多くなってはいるものの、世間ではまだいじめはかなり「悪いこと」として認知されています。
時には命に関わることもあるのですから、それは当然であるとも言えます。
ところが、加害者側からすると「加害者」と認めれば、何か極悪非道であるかのように思われるのではないかと思ってしまいます。
そうなると、自分の子どもに汚名を着せたくないと思うから必死に抵抗するようになります。
明らかにいじめであると思われる事案でさえ、認めないケースが増えているのです。

問題は、そうなると両者の言い分が異なるために、学校がその狭間で身動きがとれなくなることです。
そして、被害者の子が学校を休むようになると被害者側の怒りは収まりません。
「どうして被害者のこっちが登校できないのに、加害者の子は普通に登校し、授業も受けているんだ」と思うようになります。

しかし、たとえ加害者であったとしても、その子の学習権を奪うことはできません。学校としては被害者には別室登校を勧めたり、可能な限り教員を配置して学習面の支援をすることくらいしかできません。

私は「いじめ」という枠組みで物事を考えることをやめるべきだと思っています。
そこにこだわるのではなく、児童生徒の成長にとって良いことなのか、悪いことなのかという基準で一つひとつの事案に対応することが必要だと思います。
いざこざや、トラブルがいじめかどうかということはさほど問題ではないのです。
そもそも、これだけ定義が広くなれば、定義はないに等しいのですから。

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