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ど真ん中のストレートが暴投になるとき

野球では、少年野球からプロ野球にいたるまで投手の投げる球は,
大雑把に言うとストレート(まっすぐ)と変化球の2種類。

だけど、基本はストレートである。
基本的には変化球はストレートを生かすために使われる。
それは、遅いストレートしか投げられない投手でも同じ、とされている。
(私は、野球部の顧問を長くやってきたが、その本当の理由はイマイチわかっていない。)

けれど、私も中学生相手に指導するときは、必ずストレートの投げ方から始める。
それが、野球の王道だと信じているからだ。

さて、生徒とのかかわり方にもストレートと変化球がある。
教育にとって最も大切にされなければならないことがストレート。
例えば、努力の大切さや、相手を思いやる気持ち、ルールを守ることなど、道徳の教科書に載っているような内容や正論。

じゃあ、そのストレートを生かす変化球とは何か?

野球の基本に照らして考えると、教育における変化球とは道徳の教科書的なものを際立たせたり、結果的に浸透させたりする生徒への関わり。
そこには、道徳の教科書的に言うと若干「?」がつくようなかかわり方も含まれる。

私の経験から言えば、その変化球には次のようなものがあった。

例えば、万引きが発覚した生徒への対応。
一旦は厳しく指導するが、その後週末とかにその子と仲のいい友達を巻き込んで一緒に釣りに行くこと(万引きをした生徒が釣りが好きな場合に限る)。
そして、釣りの途中に何度も「トイレ」と言って、その場を離れるのを見て「ああ、タバコ吸いに行ったな」と気がついても、その日だけは見ないようにしてやること(家庭に複雑な事情を抱えている子に限る)。

例えば、「修学旅行なんか行っても面白くないから行かない」と必死で粋がっている子への対応。
実は、家庭が貧困状態で母親がネグレクトを続けているため、新しい下着や初日の昼食用の弁当が用意できないことが本当の理由だとバレバレ。
彼(彼女でもいいが)にとっては、宿泊先で風呂に入るときに茶色に変色した下着を同級生に見られるなんて死んでも嫌なのである。
そういう子に、新しい下着を2泊3日分自腹で買ってやり、旅行かばんも自分のものを貸してやり、初日の弁当を自分の奥さん頼んで作ってもらって、出発の日の朝こっそり校舎の陰で渡してやって、最低限の尊厳を守ってやること。

こういう生徒に「そういうことは保護者が責任をもって対応すべき」という姿勢で毅然とした対応をするのがストレート(「正論」)であり、いわば、ど真ん中のストレートである、ような気がする。
ある特定の子を特別扱いするのも、担任が自腹を切って何かを生徒に与えるのも純粋なストレートではない。
だから、別にそこまでしてやる必要はない。

でも、ここで変化球を投げておかないと、次に投げる「ど真ん中のストレート」が決まらなくなる。

「二度とするなよ」
「素直になれよ」
というストレートをど真ん中に投げるためには、道徳の教科書や教員の服務規定書(いわばストライクゾーン)ぎりぎりの変化球が必要なのだ。
もしかしたら、球審によっては「ボール」と言われてもおかしくない、その1球があるから最後の決め球のストレートが、彼らの奥の方まで突き刺さる。

ただ、私のようなロートル(時代遅れ)のピッチャーにとって注意しておかなければいけないのは、150キロが出せた昔の栄光に固執し、いつの間にかストレート一本で勝負しようとしてしまうことである。

そうなると、ピッチャーマウンドから見えている「ど真ん中」が本当に今も「ど真ん中」なのかどうかを確認することさえしなくなる。
「昔はこれで三振を取ってきたから、今でもそこに投げれば十分通用するはずだ」と錯覚するのである。
本当は、自分だって若い時には、柔軟に、タイミングよく変化球を投げた結果、最後のボールが決まっていたということを忘れてしまう。

そもそもストライクゾーンは、投手が決めるものではない。
そんな基本的なことさえ見失ってしまうのだ。

その危うさをなくすためには、試合が始まる前に、打者(生徒)や審判(教育委員会や管理職)や監督(学級担任)と十分に話し合って「どこがストライクゾーンで、どこがど真ん中なのか」をあらかじめ確認しておく必要がある。
プロ野球でも、公式審判員が各球団のキャンプに出向き、フリーバッティングのゲージの後ろでストライク、ボールの判定を行う。「今年のストライクゾーンはこれだ」と互いに確認しているのである。

学校の「ど真ん中」は、学校だけでは決められない。
現時点での社会情勢や政治の行方によって大きく左右されていたり、大多数の人が考える「ど真ん中」が、知らないうちに移動してしまっているかもしれない。
もし、それに気づかずに投げてしまったら、自分では「ど真ん中」に投げたつもりのボールが、打者(生徒)にとってはバックネット直撃の大暴投に見えるかもしれない。
そうなれば、生徒は見逃がすしかない。バットを振ることさえできない。

そして、何よりも怖いのは、私たちが投げた大暴投こそが「ど真ん中」だと信じ込み、見逃すしかない自分を責めて自ら落ち込んでしまう子がいるかもしれないということだ。

そういう子は、学校というスタジアムに居場所を見つけることはできない。
先生の投げたボール、親の投げたボール、社会から投げられたボールが「ど真ん中」であると疑わないから、その球が大暴投に見えるのは自分の目がおかしいからに違いないと考えてしまう。
投げた方も暴投を真ん中(少なくともストライクゾーンを通過している)と思い込んでいるから、「どうして真ん中の甘い球に手を出さないんだ」と打者を否定する。
そうなれば、バッターボックスに立ってるだけで楽に1塁に行ける(四球で歩ける)ことにさえ気づかず、うつむいたままベンチに下がり、仲間を置いて球場を後にしてしまう。

教育における変化球を「応用問題」と言った人がいた。
けだし、名言である。

私たちは、絶えず変化する社会の状況の中で、どんな「応用問題」を設定するか、すなわち、いつ、どのタイミングで、どんな変化球を投げるかを考え続けなければならない。
言い換えればそれは、今の「ど真ん中」がどこにあるかを考えることでもある。

時代は変わった。
ストライクゾーンは、生徒を含めた関係者全員で考えなければいけない時代になったのだ。

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