#0_自己紹介_「對不起,借過一下」
”對不起,借過一下(訳:すみません、[そこ]どいてください)”
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1996年の猛暑日かつ割と強めな台風の日に生まれたわたくし、JJ(ジェイジェイ)なのですが、そんな私が初めて習得したフレーズがそれでした。しかも発言した相手は人間ではなく、道を歩いていた犬でした。物心ついた頃から森羅万象有象無象に対してガッツがあればコミュニケーションが取れると強く信じていたことがうかがえます。
国際結婚家庭かつ海外に生まれ育つということ
ところで、日本に移り住んでから地味に9年目突入した私なのですが、「地元どこなんですか?」と聞かれて、間髪入れずに「あー、台湾すね、生まれも育ちも。」と答えると82%の確率で必ず驚かれて「へえー、日本語お上手すね」または「台湾って何語すか、台湾語すか。」とレスポンスが返ってきます。するとそこから、目下予測この先あと15年ぐらいは、「母親が台湾の人で、そんで、父が日本の人で、国際結婚家庭に生まれて…で、あの向こうに日本人学校っていう、そうそう、あの日本の学校が現地にデデーンみたいな感じでできたやつがあって…,(以下略)」のような、自己紹介をせざるを得ないんでしょうけど。いや、別に良いのよ。自己紹介する分には。というかもはや、こんな感じのやつも日本社会の一員としてここにこうしているんやで。以後お見知り置きをな。てな勢いで知っていってもらうのも、日本と台湾の狭間に揺られて育った私に課せられた運命というかタスクというか。そんな風にも思えてきます。
日本人学校・現地校で経験した酸いと甘い
ところで先ほど少し触れた日本人学校というところは、世界各地に94校ぐらいあります。日本の学校システムをまんま海外に持ってったみたいなイメージで、教員のほとんどが日本各地から派遣されて来ていて、日本国内と同様のカリキュラムのもと、日本国内で使用されている教科書を使います。私の父は、就活したくねえ!という主流の価値観に対して反骨精神を覚えて、日本を飛び出て台湾へ単身で移った猛者(娘から見て)なわけですが、それでも娘には日本的な教育を受けてほしいという、というか日本語がネイティブであってほしい、もっというと、中国語とのスーパーハイパーバイリンガルであってほしいという強い願いから、私は入学させられました。今となっては、その経験が研究をするうえでだいぶ美味しいネタになっているので大変ありがたい経験をさせてもらった(しかも現地では私立外国人学校という扱いなので、学費が高額)とも思えているのですが….。けれど、日本語が上手に話せない状態で入学した私が待ち受けていたのは、”日本語話せないなら現地校に行け”、”JJちゃんの弁当はうちらのと違うね〜”などなどお節介な言葉たちと、日本人学校にいる時間以外は現地の子どもと同じように過ごしていて、住んだことがない日本について学ぶことへの違和感から始まる困難でした。あとは純粋に学力が著しく低かったことに伴う自信の喪失、競争からの逃避などがございますが。ビリギャルよりもビリギャルな小・中学校の9年間を日本人学校で過ごしてから現地のいかつい(学力低めな)高校に進学したわけです。そこでいかつい出会いの数々もあり、揉まれてこの私になって…ま、それはまた別の投稿で。ここまで書くと9割酸いみたいな感じになったな。甘い部分はこれらの酸っぱすぎる経験から今もなお回収中ということにしておこう。うん。
日本にへの移住,アイデンティティ探しの旅
2015年秋、19歳時点の幸運を全て使い切ったのでは?という出来事が起きます。JJの人生のターニングポイントその1。台湾に生まれし、ビリギャルこと私、まさかの、帰国生入試を経て自分的にはとても良い国立大学の文系学部の合格を射止めるという大事件。前述の通り、いかつい高校からの自分的にはとても良い(ここ、とても大事)国立大学の文系学部への進学だったので、出会う人々、交わす会話が高校時代と比べてこんなにも違うんだ…..!やっと私の居場所が….!という前述の酸いが大いに回収されていくわけです。多分その感動が凄すぎて、今も大学という場所に留まっている理由になっているかもしれません。台湾で暮らしていた頃に散々読んでいた漫画、見ていたアニメドラマから想像を馳せ、憧憬を募らせた日本での生活は、当たり前にそんなふうにはならなかったですけど。でも少なくとも、日本に来て、大学でいろんな学問に触れていくなかで、これまでに私を縛り付けていた「日本人」「台湾人」の二項が綺麗に解れていって、結局のところ、何人、何人という括りは一旦置いといて、ありたい自分であろうと思えたのです。そしてこうやって思えたのは大学時代以降に出会った素晴らしい友人たちのおかげです。
これから:強気に”對不起,借過一下”
以上、三点が、JJという人物を語る上で欠かせない三つの大きい要素であります。これらの経験を経た私は、何ができるんだろうと考えた時に、研究者/大学の教員という道に決めたわけなのです。
日本という国はもともと多文化であったし、今も多文化であること,
さまざまな形で日本に繋がっている海外に生まれ育つ子どもと若者がいること,多文化共生社会を目指すも、さまざまな構造がそれの実現を阻んでいること。これらをもっと知ってもらいたいし、現行の制度や環境を変えていくための説得力と影響力を身につけるために、私はいま、大学院で研究をしています。まだまだひよっこですが。
自分の当事者としての経験を強みに活かせるという点で、海外子女教育という分野の日本人学校の教育に焦点を当てて研究を展開しているところです。この分野の先行研究や政策の文書を読んでみると、ビックリするぐらい自分のようなバックグラウンドを持った子どもや若者の声が反映されていないので、なぜ反映されていないのかを解明するとともに、反映する必要(意義)はここにあり!という強い気持ちをもって、言います。
”對不起,借過一下“。小さい頃に初めて発したフレーズは、犬に本当にどいてほしい気持ちと、でもどいてほしい気持ちは私のエゴなのであって、犬に申し訳ないな、という二つの気持ちが拮抗した形での発言であったけど、それとは違くて。”對不起,借過一下“、そう、ごめんだけど、私が行くのでそこどいて。という強気な感じで、歩んでいきたいですね。その温度感で。
という感じに今年は、研究者としてのアウトプットはもちろん(業績大事)、一個人としてもこのような形で発信することを決めたので、ひとまず自己紹介第一弾という感じで投稿してみました。眠い!寝る!アディオス!
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