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凡庸への逃避、天使たちの下痢便、しゃぶるな危険、ゴリラの肋骨論争、地獄からの生還マッサージもしくはケツバット

八月二八日

私のあとに続くすべての人のためにここに断言しておくが、この世に私の信じうるものなど何ひとつないし、救いは忘却のなかにあるものと思っている。できることなら、私は一切のものを、おのれ自身をも全世界をも忘れてしまいたい。真の告白はただ涙をもってのみ書くことができる。

E.M.シオラン『絶望のきわみで』(金井裕・訳 紀伊國屋書店)

午前十一時半起床。一時間半便々とスマホいじり。濃い緑茶、わさびふりかけご飯。風邪引いたみたい。喉の異物感ハンパない。水っ洟(水様性鼻汁)がでる。まさかコロ氏ではないよな。きょうは休みだからおとなしく在室か。セカンドストリートへトートバッグ買いにいくつもりでいたのに。だるくて何も書く気がおきない。ちくしょう、隣のジジイがかえってきやがった。いつまで生きてんだこいつは。泣きっ面にジジイ。

ジョルジュ・アガンベン『哲学とはなにか』(上村忠男・訳 みすず書房)を読む。
私のおもう哲学とはずいぶんかけ離れたものだったけど、ひとつの思考演技としてはなかなか楽しめた。音声と言語の差はいったいどこにあるのか、という問いの可能性に気づかせてくれただけでも、ありがたい。アガンベンはデリダ同様、ハイデガーを批判的に継承している人だが、ハイデガーを思索へ向かわせた根本情動(存在への驚愕)にはあまり執着していない。というかそもそも執着しえないらしい。いったいこの人は「ある」という剥き出しの現事実のなかで呆然と立ち尽くしたことがあるのかな、とそればかりが気になる。
付録「詩歌女神(ムーサ)の至芸――音楽と政治」は示唆に富んだ一篇。だが、現代を「ムーサによって調律されていない最初の共同体」とする彼の時代診断をどう受け取ればいいのかは分からない。「言語活動とのムーサ的なつながりが喪失」している、とはどういうことか。ムーサはギリシア神話における学問・文芸・音楽の女神。複数系はムーサイ。英語ではミューズ。ミュージックやミュージアムの語源。ヘシオドス『神統記』によれば、ゼウスとムネモシュケ(記憶)のあいだで生まれた九人の姉妹神とされている。現代の「おしゃべり」はもはやムーサ的霊感からは隔てられている。「言葉の始原」など尋ねないのもそのためだ。『存在と時間』におけるGerede(空談)や Neugier(好奇心)は存在忘却の明白な一症状であり、それらを通して現存在は、「世間内存在(世人)」としての閉鎖的曖昧性にはまりこむことになる。私はこれを「凡庸への逃避」としている。
ノートに以下の文章が書き抜かれてある。

言い表しえないものではなくて、言い表しうるものが、哲学がみずからを測定しようとするたびに立ち戻らなければならない問題をなす。

言い表しうるものとイデアについて

あす図書館いけるかな。こんや夢のなかで佐野兄ちゃんに会いたい。オッケーグーグル、ただの風邪の治し方おしえて。

早乙女の遠き欠伸の口黒し(平畑静塔)

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