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待てど暮らせどさしすせそ

五月十日

視野に閃光が走ると同時に激烈な痛みを感じた熊太郎の脳裏に、酢醤油、という言葉が浮かんだ。ガラスの小瓶に入った酢醤油が森を疾走する。ひとつではない。何百ものガラスの小瓶だ。何百ものガラスの小瓶に入った酢醤油が中空に浮かび森を走る。森というものは木が密生しているから無茶苦茶な速さで飛んでいる酢醤油の瓶は当然、木に激突して割れる。割れたガラスは月の光にきらきら輝きながら下草の這う闇のような森の地面に落ちていく。そして周囲には酸っぱい匂いがたちこめる。

町田康『告白』

午後二時起床。カレードリア焼きながら本稿着手。やっぱり二度寝してしまう。きょうの図書館入りは四時半ごろになりそう。来週はまるごと休むからここは一踏ん張りだ。読みたいものを読み続けることも楽じゃない。隣の爺さんの音が気になる。やはり「生耳」でいると奴のアクビ並びに戸の開け閉め音が聞こえてしまう。鳥肌が立って嘔吐を催し殺意が湧いてくる。このへんでプロテクター(ヘッドフォン)を装着しよう。音楽はオットー・クレンペラー指揮のモーツァルトシンフォニー集で決まりだ。

カトリーヌ・マラブー『明日の前に』(平野徹・訳 人文書院)を読む。カントの再読解本。カントの三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)とカンタン・メイヤスー『有限性の後で』は読んでおいた方がいいかもしれない(私はこれらの書とはろくに格闘していない)。ただほとんどの「哲学書」がそうであるように、「予備知識」などなくともおおよその議論は追える。そのへんは熟読の技法がものをいう。「アプリオリ」とはもともとスコラ哲学の用語で、定義や原理から開始する議論の方法を指すが、カント哲学においては主として「経験に先立つ条件」を意味する。カントによれば空間や時間の認識様式はアプリオリだとされている。マラブーの特徴は現代生物学や脳生理学等の知見をわりと大胆に自身の思索に援用することだろう。このような姿勢は僕の敬愛するハイデッガーには欠けていたものだ。
子供のころ素朴に思ったことがあるはずだ。「この世界」には「ルール」など存在するのか。それとも「自然」はカオスで何もかもが偶然の産物なのか。もし自然が「カオス」で「なんでもあり」なのであれば、どうして毎日がこう型通りなのだろうか。いますぐ自分の人体や大地がばらばらに砕け散ってもいいはずなのに。どう見ても「この世界」には一定の秩序が存在している。一度発生した「この生命体」がいま現に「このようにあること」はどこまで「必然的」なのだろうか。もっと別のありかたが出来ないのだろうか。「生成の様式そのもの」に変化がもたらされるとはどういうことなのだろうか。
町田康『告白』(中央公論新社)を読む。
持って生まれた思弁癖のせいで「本当に思っていること」をなかなか言語化できない城戸熊太郎が弟分の谷弥五郎と大量殺人をやってのけるという長篇小説。終盤近くの殺戮場面をげらげら笑いながら読んだので個人的には「残酷喜劇」だと思っている。ムカつく奴らを全員こんなふうに殺せたら世の中はどんなけ楽しくなるだろう。本書は一八九三年の河内国(今の大阪府)で実際に起こった「河内十人斬り」に材を採ったもの。この事件が同時代人に与えた影響は甚大だったらしく、<河内音頭>のスタンダード・ナンバーにもなっている(「男持つなら熊太郎弥五郎、十人殺して名を残す」)。いつの世にもダークヒーローってのは必要なのよ。たしかに熊太郎には同情すべき点が多くあって興味深いのだが、それいじょうに僕は弥五郎のことをもっと知りたいと思った。彼のように一人でも生きていける気丈な男がどうして熊太郎のようなウダツの上がらぬ男にあそこまで「忠義」を尽くしたのだろう。一度受けた恩を忘れぬ、ということか。とちゅうなんども熊太郎のダメっぷりに失望しそんな男を「兄哥」などと奉っている自分をアホらしく感じながらも、けっきょく彼は最後まで熊太郎のもとを離れなかった。「生まれたときは別々でも死ぬときは同じ」の契りを果たしたことになる。ひとつは弥五郎が<天涯の孤児>であったせいだろう。命を預けられるような兄貴分に飢えていたのだ(他者とは常に既に「理想化」されているのだ)。弥五郎のうちには最初から「認知的不協和」が存在していた。自分をかつて助けてくれた兄貴分が実はかなり情けない男であることに薄々気が付いており、苛立ちがあった。いつだって見捨てることが出来たし、じっさい見捨てかけたこともある。この小説の「美しさ」は弥五郎のそんな葛藤の描きかたにある。この小説に出て来る男のなかで僕が唯一惚れたのは弥五郎だけだ。
村中の男たちが縫の美しさに陶酔し判で押したような<ロマン病>にかかるところがいい。こういうのを誇張法というのか。熊太郎の最大の誤りは縫に恋し、あろうことかその妻になろうとしたところにある。ここに熊太郎の野暮がある。愚直がある。この世のほとんどのごたごたはカネと色情と虚栄心に淵源している。遠くから崇拝していればいいものを。「神の使い」とまで思わせる人であれば尚更。馬鹿だなあ。
もう五時じゃん。図書館行くのよそうかな。もうまいにち同じ場所に通うのにも疲れて来た。ひねもす寝て過ごしたい。あかんではないか。

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