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馬鹿でありたくない病をこじらせたなら

三月五日

賞味期限切れの芋けんぴ、コーヒーを淹れる。芋けんぴとはサツマイモを拍子木切りにし、油で揚げ、砂糖などで甘くしたもの。一般的には高地の「郷土菓子」ということになっているが、この手の郷土という概念をいまいち信用していない私は、いちおう引用符をつけておく。サツマイモはヒルガオ科の多年草植物もしくはその食用部分である塊根。日本に導入されたのは一七世紀ごろ(最初に伝わったのは一五九七年の宮古島)。メキシコを中心とする熱帯アメリカに起源もち、すくなくとも紀元前八〇〇年から一〇〇〇年ごろには中央アンデス地方で栽培されていたらしい。ヨーロッパなどへの導入は、コロンブスがイザベル女王(スペイン)に献上したのが最初で、一七世紀にはヨーロッパ各地に伝播したが、涼しい気候のためかジャガイモほどには栽培されなかった。世界的に普及したのは、気温が高めのアフリカやインドなどに持ち込まれてからだ。
ところで私がまいかいこのような博物学的要約を敢えてするのは、「事実の不明確さ」を痛感したいがためである。まいかい複数の事典を参照するたび、その記述内容が互いにかなり異なっていることを発見する。「いったいどれが本当なんだ」ともやもやする。このもやもやを通して「学説」「情報」「知識」というものの不確定性を知る。これは反省に良い契機になる。「政治的概念」や「論争的問題」であれば尚更その記述に「存在被拘束性」が色濃く刻印されることになる。私はつねづね「断言は馬鹿の特権(かもしれない)」と言っている。私自身が「馬鹿を脱したい」からこう言い続けている。このばあいの馬鹿とは非学問的人間のことを指す(「反知性的」という言葉はこんにちかなり誤解されているので使わない)。非学問的人間の特徴はなによりもまずその「無教養」と「無内省」にあると私は見ている。かりに「無教養」であっても、「無教養であることへの羞恥心」があればまだいいのだけど、たいていの馬鹿には「無教養であることへの羞恥心」がおそろしく欠けている。だからいちいち「内省」などしない。というか出来ない。いつも「現存在」が生活ノイズで覆われているから。「内省」の構成要素に「懐疑」があるけれど、ほとんどの馬鹿は短絡的思考に慣れ過ぎているので、「思考の宙吊り状態」に耐えられない。だがここで踏みとどまらねば「思考」の凡庸化はほとんど避けられない。すでに流通している紋切り型観念を単純に反復する以上のことは出来ない。「知的潜在力」の酸欠死だ。眼が曇る。思考において燦然たる「突破」を果たすために欠かせないのは「ためらい」だ。「断言」が愚者の作法なら、「ためらい」は賢者の作法である。「ちょっと待てよ」と立ち止まり、執拗過ぎるほどに考えること。周囲の馬鹿騒ぎに巻き込まれてはならない。シュプレヒコールに飲み込まれてはいけない。熱狂に埋没してはいけない。おおくの人間は遅鈍になるように「焚きつけられている」。共同体的倫理や習慣的偏見の重力圏を脱するには、教養の燃料が必要だ。これは大量にあり過ぎて困るものはない。古今東西の知的資源を摂取し、知性を肥え太らせること。「常識の罠」への注意を怠らないこと。

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