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「現代人」の狂気はどこに流れているのか、「考えさせられる」をやたらに使う書き手の知性を信用しないこと、

二月八日

人生を我慢できると思う連中がいるとは呆れたものものだ。結局はそれほど捨てたものでなく、結局は魅力的だと思っている。

A・ピュイグ『未完の書』(細田直孝・訳 新潮社)

午前10時11分。割れたせんべい、緑茶。シャ乱Qかスティーヴィー・ワンダーが聴きたい。現存在であることにひじょうな苦痛を感じている。私は「人間が愉快に生きることは不可能である」ということを精確に理解している数少ない人間の一人だから、誰と話していてもその蒙昧にイライラする。ほんとうは私も含めすべての人間はいますぐ自死すべきである。少なくとも「まだ自死していない自分」を恥じ入るべきである。(「存在」ではなく)「人間」に関する問題で重要なのはいつもこれだけだ。なのにこれ以外の問題のほうがあたかも重大であるかのように「人々」は考えたがる。みずから「グロテスクな凡庸さ」に染まろうとする。あぱぱぱあ。俺のドリアだけはミミズの肉を使え。下層民と俺を一緒にするな。あぱぱぱ。

エドワード・リア『リアさんて、どんな人?――ノンセンスの贈物』(新倉俊一・編訳 みすず書房)を読む。
limerick(滑稽五行詩)というものをまとめて読んだのは初めて。エドワード・リア(1812~1888)はヴィクトリア朝時代のノンセンス詩人にして画家。ルイス・キャロルにも影響を与えた。邦訳でもその奔放さはあるていど楽しめるが、押韻(rhyme)の小気味良さはやはり原文でないと分からない。マザーグースだってそう。ノートに書き抜いたリメリックをいくつか並べる。

エトナの町のおじいさん
えらい火口に落っこった
「熱いでしょうね?」ときかれても
「熱くはないさ!」と言い張った
ウソもどえらいおじいさん

ランスの町のおじいさん
こわい夢みてうなされた
寝かせぬためにみんなして
つぎつぎケーキを食べさせた
そこですっかり上きげん

ホンコンに住むおじいさん
まがったことは決してせず
ただ仰向けに寝転んで
頭に袋をつっこんだ
ホンに無害なおじいさん

マインティの町のおじいさん
まいにち梨を買い漁り
五百九十も買いこんで
なんの気なしにほうりなげ
つぎつぎひとに打ち当たり

ノンセンスは日々抑圧されながら生きている人間にとっては必要欠くべからざるものだ、といったオルダス・ハックスレーの文章も付されていた。まったくその通りだ。ノンセンスの面白味を解さない人間はもうすでに自分の不自由さに気付く自由さえ奪われている、と言える。そういった人間は「狂気の捌け口」を持たない。持っていたとしてもそれは極めて狭く、類型的なものにとどまるだろう。談志の「粗忽長屋」を聴きたくなってきた。これほど「狂気」を感じさせながらも笑わせることの出来る噺は世界でも類を見ないのではないか。褒めすぎか。そういえば俺はひところ「HowToBasic」というユーチューブチャンネルにはまっていた。やたらと奇声を発したり食べ物を無駄にしたりする「過激」な動画。卵を投げまくりたい欲求を日々抑圧しながら生きている人たちにとっては堪らないだろう。俺はこれを最初に見たとき、「蕩尽こそが人間の本来的目的である」といったバタイユ思想の通俗的実践を前にしているようで嬉しくなった。私はきわめて小児的な人間なのでこういうものについ単純に興奮してしまう。眉をひそめながら「悪趣味だ」なんて呟くことが出来ない。けっこういるでしょ、そういう奴。だいたい「子作り」とかいう最強に悪趣味なことを見過ごしておいていまさら常識人面するなよお前ら。まだこのチャンネルはあるみたい。今夜ひしさぶりに見てみたいね。

そろそろご飯が炊ける。シーチキンかけて食うか。図書館には二時には入れそう。かかろっと松本。脳死ジャパン。キ印運命共同体。お前の右目はロンドンを向いていて、左目はパリを向いていて、鼻は下北沢を向いている。

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