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オナニーは走る前にしたほうがいい、ということを語るときに僕の語ること、

六月二一日

ニヒリズム、ポスト構造主義哲学、クィア・フェミニズムは、言語領域で作用するほとんどすべての形而上学的な審級を爆破した。神は死んだ、作者は死んだ、作者は面目を失った、ジェンダーは脱構築された・・・・・・。しかし、身体(とりわけ男性の身体、ペニス、あの数センチの小さな垂れ下がった器官)は、批判的に触れることができないように思われた。

ポール・B.プレシアド『カウンターセックス宣言』(藤本一勇・訳 法政大学出版局)

午後十二時二分。うずらエッグ、ブラック・ティー。走る前はあまり使っていなかった筋肉が痛い。とくに太腿。ジョギングさえしてこなかったのにいきなりランニングだからな。しかもこの糞蒸し暑いなか。さいごに本格的に走ったのは大学生のころじゃないか(体脂肪率を中途半端に気にしているふうなN氏に誘われて夜の住宅街を走った記憶がある)。暗くなった河川敷は人も少ないので走りやすい。芝生の上を走るほうが脚への負担が小さい気がする。金沢の人でないと分からない固有名をあえて出すなら、雪見橋と桜橋の間を歩かずに自由なペースで往復ランニングするだけでも相当に疲れる。いずれこれを犀川大橋、さらには御影大橋まで伸ばすつもり。その日どのくらい走ったのかを知りたいので昨夜「歩数計アプリ」をダウンロードした。ただ使い方がまだよく分かってない。タンクトップが汗を吸い込み過ぎて重たくなって気持ちが悪くなると躊躇なく上半身裸になる(「タンクトップから絞り出せるほどの汗をかくこと」は俺のひとつの小さな夢だった)。上裸で走るなんて男らしくていいじゃない。上裸で走っている男がほとんどいないのは不思議だよ。少なくとも「法的」には何の問題もないのに。「文明人」はどんなに暑くても脱ぐことをしない。ほんとうは脱ぎたいくせにね。この痩せ我慢に「野蛮人志望」の俺は苛立つ。きょねん六甲学院の「総行進」の動画をみて、「ああ男はやっぱり上裸だな」と再確認した。どんなにヒョロヒョロでどんなに顔がまずい男でも上裸になるとちょっと変わって見えるから不思議。「裸になる」というのは最も単純で最も劇的な変身法なのかも知れない。寺山修司『花嫁化鳥』の「裸祭り男歌」にそんなような文章があった気がする。探してもすぐには出てこないだろうから正確な引用は出来ないけど。なにかとすぐに脱ぎたがる「男子校的なノリ」への憧れは日々募るばかり。走って帰宅したころにはオナニーなどする体力はほとんど残っていない。「一回の射精は全力で百メートルを走るのと同じくらいに体力を消費する」という俗説があるけどそれもあながち間違っていないように思う。というわけで今日からは走る前にオナニーをする。さくやも鶏胸肉を炒めて食った。体力消耗後の肉はうまい。空腹は最高のスパイスだ、と陳腐なことを敢えて言っておきたい。鶏胸肉にパン粉をまとわせてみてもいいかも知れない。近いうちにやってみる。

もう一週間以上食っているやつ

今日はこのあとどうするか。「ランニングシューズ」も買いたいんだよな。そうすれば途中で怠けることもしなくなるだろうから。とりあえず昼食を済ませて、『百年の孤独』を読んで、アレをして、それから考えようか。売れ残りの焼きそばみたいな顏しやがって。

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