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ぴーちくぱーちく、グロカワ先生、新五百円硬貨がババ抜きのババみたいになっている、御伽の国の地対空ミサイル、黒田バズーカ、

十一月二三日

西洋、ことにアメリカで生活するアラブのパレスティナ人は失意の日々を強いられている。この国には、アラブのパレスティナ人は政治的には存在しないとするほとんど完全に一致した世論がある。アラブのパレスティナ人の存在が許されるとしたら、それは厄介者または東洋人〔オリエンタル〕一般のいずれかとしてなのである。アラブないしはイスラム教徒を封じ込めるものとしての、人種差別主義、文化的ステレオタイプ、政治的帝国主義、反人間的イデオロギーの網の目〔ネットワーク〕は、まことに強力である。この網目〔ウェブ〕こそが、すべてのパレスティナ人にまたとない過酷な運面を感じさせている。

エドワード・W.サイード『オリエンタリズム』序説(今沢紀子・訳 平凡社)【原文ルビは〔〕】

午後十二時五分起床。濃い目の紅茶、フルーツグラノーラチョコレート。ホリエモンと萩本欽一が緑に囲まれた別荘で対談している夢をみる。びーじーえむはシューマンピアノ五重奏曲第一楽章とウルフルズ「ガッツだぜ!!」。さいきんときどき仮装大賞の動画を見てる。ホリエモンなんかいらないから森下翔太だせよ。さくや結果の分かっている日本シリーズの第五戦をずっと見てたのに(まだ俺は野球に時間を奪われている)。逆転した八回裏より中野森下のダブルエラーのあった七回表のほうが面白かった。しでかした直後の二人の表情が愛くるしくて思わずスクリーンショットを撮りそうになったよ。「好きな人に限って夢に出てこない説」は俺的には本当。佐野菩薩はもちろん、結弦や翔太や拓夢の姿を夢で見たことなんか一度もないから。

ヌイグルミのキーホルダーをリュックやバッグに付けている高校生をやたら多く見かける。なかには三つも四つもブラ下げているのもいる。女子も男子もブラ下げている。そのうちオッサンまでブラ下げかねない。全国的にこうなのか。俺が高校生の頃はどんなふうだったか。思い出せない。「モード研究」の視点など当時はなかった。今で言うガラケーに「ストラップ」を付けまくっていた「ギャル」は結構いたかな。いや、ど田舎高校だから「ギャル」なんて呼ぶべきではない。「渋谷のギャル」に失礼だ。すくなくとも二〇〇〇年代のはじめには、男女別なく誰もが、「かわいい」的な価値観を(ある程度)共有していた。四方田犬彦は『「かわいい」論』(筑摩書房)のなかで、「かわいい」の構成要素には、美しさや愛らしさのほかに、醜さや不気味さやグロテスクさもあると説いた。「グロカワ」もあれば「キモカワ」もある。森チャック氏のデザインした「いたずらぐまのグル~ミ~」なんかいつも口元に血を付着させている。「かわいい」という感性はそう一概に定義できるようなものじゃない。高校生がブラ下げまくっているあのヌイグルミはたぶん一種の「お守り」なのだ。おおかれすくなかれ学校というのはストレスフルでおそろしい場所である。一部の変人以外にとっては授業は死ぬほど退屈だし、いちいち<one of them>として振る舞うことを強いられる。人間関係など脆くて果敢ないものなので、友人も教師も「絶対的な味方」にはなりえない。そんな魔界みたいところに日々通うのに無防備ではいられない。いつも手元に「ライナスの毛布」が必要だ。「実家のような安心感」を与えてくれる何か。自分の部屋の空気をじゅうぶんに吸い込んでいる何か。決して自分を裏切ることのない何か。これいがいに、ヌイグルミを「自己愛の延長(アバター)」として分析する観点もあって、むしろそっちのほうが大事なくらいなんだが、今日はそれを詳述する時間がない。いずれまた。

杉本秀太郎・編『音楽と生活(兼常清佐随筆集)』(岩波書店)を読む。
カネツネキヨスケ(一八八五~一九五七)。音楽評論家といっていいのか。吉田秀和に比べればずっと知名度は低い。俺はこれを読むまで名前も聞いたことがなかった。忘れ去られつつある、と言ってもいいのかも。その理由は本書収録の「名人滅亡」や「音楽界の迷信」を読めば分かる気がする。いちいち唯物論的で、シニカルで、醒めすぎている。神秘的あるいは曖昧な批評言語が大嫌いで、「巨匠の名演」といったものにもほぼ塩対応。「名人のタッチなどという曖昧至極なものに感心したような顔」をする人々のなかに、英雄崇拝の感情を見たりする。こんなイジワルな文章を書く人がチヤホヤされるはずがない。俺はカネツネのなかに西部邁的な孤高性を見た。両者とも、<本当のことを言ったら嫌われる>と無邪気にボヤいてそうだから。

もう飯食うわ。きょう祝日なんだね。四時には入る。

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