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超絶的堕落技法あるいは海と桜とペニシリン、

十一月十九日

ジャンの身体は、いわばヴェニス製のフラスコであった。私はジャンから抽き出されたあの素晴らしい言葉が、糸毬の糸がそれをやせ細られせるように、彼の身体を透明な、一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間が来ることを疑わなかった。その言語はそれを発した天体を構成する物質の秘密を私に教え、ジャンの内臓にたまった糞も、彼のよどんだにぶい血液も、精液も、涙も、膿汁も、われわれの糞や、血液や、精液とは同じものではないことを思い知らせるのだった。

ジャン・ジュネ『葬儀』(生田耕作・訳 河出書房)

午後十二時二四分起床。柿ピー、濃い目の緑茶。さくやからクシャミが目立つ。鼻詰まりも強い。感冒か。あとで葛根湯でも飲むか。でもそんなにだるくない。とはいえきょうの図書館行きはひかえたほうがいいかしら。出来るだけ早くマッキンタイアの『美徳なき時代』を読みたいんだけど。議論の精緻さが半端ないんだよこれ。頭が鈍ってると難儀すること必至。「道徳」「倫理」を研究している人は必ず精読したほうがいい。そういえばさいきん池田大作が死んだらしい。「愛は勝つ」のKANも。夜空に流星を見つけるたびに俺の骨密度は高くなる。遠赤外線ヒーターが近くにあるにもかかわらず、起動させていない。下手したら一時間何十円にもなるからな。寒さが実力を備える厳冬までぜったいに使わぬ。武士は食わねど高楊枝。「羽生結弦が離婚発表」という記事をきのうたまたま見たが、そもそも彼が結婚していたことも知らなかった。しかし結婚や離婚というごくプライベートなことさえいちいち報道されてしまう有名人は我々の想像も及ばないような理不尽的日常を生きているのだろうな。これを「有名税」なんていう頭の悪さしか感じさせない言葉で肯定する向きさえあるんだから。ソチ五輪のころ、はじめて彼の姿を見て、その優美さに吃驚した。ただそれいじょうに「胸の疼き」を感じた。プラトンの『パイドロス』的な意味で。僕が観音菩薩の権化だと信じ、まいにち三度の叩頭礼拝を欠かしていない「あの学生アルバイター」に、羽生はどこか似ていたからだ。僕にとっては、彼が羽生に似ていたのではなく、羽生が彼に似ていたのである。だからいまも羽生の姿形を僕は直視できない。天上的美(善のイデア)と比べたときの、地上の救いようのない醜さを、ただ思い知らされるだけだから。

ダニエル・C・デネット『自由の余地』(戸田山和久・訳 名古屋大学出版会)を読む。
本が綺麗だったので、てっきりデネットの新刊を訳したものだと思ったが、そうではなかった。原書の出版は一九八四年。どうりでレーガンとかいう名前が出てくるわけだ。ただ訳者の言う通り、面白さにおいては彼の全著作のなかでも随一かも。彼の後の著作は重厚長大なものが多い(去年読んだ『心の進化を解明する』なんて翻訳では七百ページ以上もあった)。本書は「自由意志」をめぐる試論。要約する気はない。そんなの手に余る。だいたいデネットの議論は甚だ分かりにくい。たぶんその「分かりにくさ」にこそ彼の真面目が潜んでいるのだろうけど。彼は専門家にとっても扱いにくい学者らしく、maverick(一匹狼)と呼ばれることもしばしばだとか。解説ではデネットの知的ルーツが主として、「行動主義心理学(behaviorism)」「自然主義(naturalism)」「日常言語学派(ordinary language school)」の三つにあるという分析が紹介されている。前の二者はともかく、日常言語学派とはいったいなにか。さいきん広告表示の仕方を大胆に変えてきたコトバンクによると、一九四〇年代後半から一九五〇年代後半にかけて、イギリスのオックスフォード大学を中心に活動した一群の分析哲学者のこと。その代表選手は、G・ライル、J・L・オースティン、H・L・A・ハート、P・F・ストローソンなど。ああ確かにこういう名前がよく出てきたな。ハートの『法の概念』は未読だけどいつも傍にある。彼らの学問上の中心課題は、これまで省みられることの少なかった日常言語を分析することだった。言葉と哲学は切り離そうにも切り離し得ない。「言語ゲーム(Sprachspiel)」という概念で知られる後期ウィトゲンシュタインもほぼそんな観点に立っている。そういえばハイデガーも言語問題にはかなり取り組んでいた。うんざりするほど神秘主義がかっていたけどね。「言葉は存在の家である(Die Sprache ist das Haus des Seins)」とか言ったりして(『「ヒューマニズム」について』)。
私は<ある>ということを<私>と同義に使用している。<ある>とは端的な「そこにある」ということ。<ある>はつねにすでに「そのようにある」。この「そのように」という本質規定性(個物規定性)を「言語的契機」とするかしないかという問題の付近でいつもうろうろしてる。世界(意識)は、「ペン」「パソコン」「メモ用紙」「机」といった本質規定(これは~である)だけで構成されているわけではない。<気分>もその一次的な構成要素である。すでに何らかのかたちで<私>を「そのように」規定しているのだから。

もう飯食うわ。レトルト麻婆丼。たぶん俺は風邪じゃない。四時には入れるか。今夜の散歩は中止だな

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