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そこに愛はない、芳香剤を爆買いしたいのはお前だけ、ひねもすのたりのったり、絶望的群像、

十一月十七日

どっかにね、村ごと招待にあずかったことあるんやて。そしたら挨拶の仕方からして分らんから、全部カミナヤ爺様の、
「俺のするとおりにせい」
という訳ね。
そしたら御馳走の時になったら、里芋の炊いたのね、あれがあったて。爺様、挟んだらすべってぽたんと落ちたて。
ほしたら他の者も全部落といたて。
ほしたら爺様拾おうと思って、そして立ち膝にね、立ったら、その時その褌が一寸ずれとったて。そして金玉片一方出おったてね。
で、みんな爺様のそれ見とるさかいに、みんなそれを出いて、ずったて。

松谷みよ子・編『昔話十二か月(一月の巻)』「里芋転がし」(講談社)

午後十二時十八分起床。濃い目の紅茶、源氏パイ4枚。石原良純を背負いながら東京の街をさまよっている夢をみる。きのうは古書店へ行かなかった。いまにも上空から液体が落ちてきそうだったから。来週かな。かなかなかなかなかなかなかなかなかな。ヒグラシ。ひぐらしのなく頃に、というアニメがたしかありました。アニメはあまり興味が持てない。図書館で定期的におしゃべりしているある友人は「アニメオタク」らしく、いつか「ソードアート・オンライン」が気に入ってるみたいなことを控えめに言っていたが、とうぜん見たことも聞いたこともない。ためしに原作のライトノベルでも読んでみるかと思っているのだけど、ふだんから縁遠いジャンルだけに、なかなか気が進まない。たまには趣向を変えてみるのもいいんだけどね。

開高健『ALL MY TOMORROWSⅠ』(角川書店)を読む。
単行本未収録エッセイ集。ぜんぶで四巻まであって、この一巻は1955年から1960年にかけて書かれたもの。いかにも「若書き」という感じがする。後年のエッセイに特徴的な、骨太にして稠密、いい塩梅に諧謔味を含ませたあの文体は、もうすでにこのころにはだいたい出来上がっていたようだ。生まれたての赤ん坊を「サルを缶詰めにしたような皺くちゃづら」と形容するのにはまいった。とうにんもこの表現をけっこう気に入っていたようで、本書のなかでももう一回使われている。
いきなりシャーウッド・アンダーソンのことが書かれていて嬉しくなる。『ワインズバーグ・オハイオ』(1919年)は、「俺の愛する小説ベスト100」には間違いなく入る作品。この小説は、アメリカ中西部オハイオ州の架空の田舎町ワインズバーグを舞台とした二四の物語によって構成されている。登場する人物はことごとく弱者で、それゆえ鬱屈しており、未来的開放感のない町のなかで、いつも窒息気味にもがいている。地面で仰向けになってもぞもぞ手足を動かしている晩夏のセミのように。彼の小説には、他の小説ではなかなか味わえない、固有の気色悪さがある。一人一人の饐えた体臭が鼻を突き、読んでいて気が滅入る。なのに惹きつけられてしまうのは何故。たぶん「身に覚え」があるからだ。二五歳の頃の開高に語ってもらおうか。

アンダスンは、しかし、これらの容易に脱皮も変貌もできず、しかも自我が薄暗く熱い半覚醒の状態にあってたえず外界の脱出口を手さぐりで求めている小市民たちに今世紀の不幸の一つの姿を読み、敏感に病部を嗅ぎつけた。彼は人物の内部に探針を入れた。どんな人間も何らかの意味で不具であり、グロテスクなものを持ち、抑圧され、歪み、不安定であることを彼の鋭いペンはぼくたちに教えてくれる。

アダンスン「冒険」についてのノート

ほんま「上手」ですわ。患部ではなく「病部」という、国語辞典に載っていないような言葉を、あえて使うところが好き。世にいう個性とは「病部」の別名なのかも知れん。ともあれ人間の心はつねにグロ注意的な何かであることだけは確か。「どんな人間にも闇がある」という常套句を反芻する勇気が俺にはずいぶん欠けている。俺にはたぶん小説は書けない。

もう飯食うわ。納豆パスタね。四時には入れるな。

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