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これからの時代は男にも学問が必要だ、国は異性婚も認めるべき、「欲しかったものはすべて手に入れたのにどうしてこんなにも空しいのか問題」の非ユークリッド幾何学的構造、気が付けばメスカリン砂漠、

九月二日

狭い心は厭わしい。
狭すぎて、善も悪も居場所がない。

F・ニーチェ『喜ばしき知恵』「戯れ、企み、意趣返し」(村井則夫・訳 河出書房新社)

午前十一時五六分。干し芋スティック、オリゴ糖入り青汁、紅茶。「出来る男は食うものも違う」。休館日。

濃くない紅茶は紅茶ではない、

今日から毎晩は飲めないので、昨夜はいつもより多めに飲んだ。ストロングゼロ(350ml)、サントリービール(350ml)、いいちこ25度ワンカップ(200ml)。イスラム教に改宗することに決めた人がトンカツ屋へ行って目一杯食うようなもの。そういえばイスラム教徒は酒も飲めないんだっけ。あくまで原則であってこっそり飲んでるのもけっこういるんだろうけど。しかし酒を禁ずるなんて野暮な神があるもんだね。だから嫌なんだよ神ってのは。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」とかバカなことを命じる神もいるし。彼らとはあまり付き合いたくないね。戒律なんてのも嫌だな。だいたいどんな宗教にも戒律がある。あれを食うなとかこれはするなとかいい歳した大人に言うことじゃないよ。そういうものがある限り人間は幼年時代を脱することは出来ないだろう。世の中には何かに縛られてないと落ち着かないというヘタレ野郎が少なくない。大なり小なり誰もが家畜マインドを持っている。きっと自己決定によって不幸になるのが嫌なんだ。他律的でいたほうが気が安らぐんだ。これすなわち「自由からの逃走」。悪い結果になっても誰かを責めて泣き喚けばいいんだから。「ママの言った通りにやったのに」。とりあえず俺はアル中ランボーでないことを自らに証明しなければならない。俺はいつも有言実行の男だ。でなければこんな箸にも棒にも掛からない日記を600日以上も書き続けることは出来なかっただろう。便意を催してきた。雲古してくる。シオランの『カイエ』(金井裕・訳 法政大学出版局)を久しぶりに読んだ。しかしこんなチラ裏と言われても仕方ないような怨嗟的雑言を読んでもらえるんだから、なんだかんだ言ってもこの人は「成功者」だよ。当人はどこまでも敗北者のつもりでいるんだろうけど。シオランに比べて不幸も教養も知性も文才も中途半端なプチシオラン(エピゴーネン)がこの世にはうじゃうじゃいる。本当に救われねばならないのはそういう孤独で貧乏でキモくておまけにチンコの臭い「本物の敗北者」どもだ。おのれの絶望的境遇に陶酔できる才能においてシオランの右に出る者はいないと思う。抜き書きしたものを並べようか。今回はいちいちツッコまないことにする。

人が望もうと望むまいと、自殺は一種の〈向上〉だ――自殺するバカはもうバカではない。

ひとつの決まり文句を見つけて――そして死ぬ。

叫びからはますます無縁になりつつある。これは疲労なのか老いなのか、それとも良識にすぎないのか。

生を耐えるためには、すね者か間抜けでなければならない。
そういう資質を持ち合わせていないと、生は絶えざる試練、不治の病だ。

なんともひどいもんだ! 今日、詩人が詩について書き、小説家が小説について、批評家が批評について、神秘家が神秘思想について書いている。

創元社から出ている『シュルレアリスム辞典』はなかなかいい。枕頭に置きたいけれども一万円近くもするので買えない。ウィルヘルム・フレッディというデンマークの画家のことをはじめて知った。彼の絵を見ている王と側近とのやりとりがいい。「この作者は監禁されているのか?」「まだでございます」。狂人は狂人を演ずることさえ出来ないんだけどね。いま人々が彼の絵を見るとやや陳腐に思うだろう。それに比べてルネ・マグリットはどうだ。彼の絵はいつまでも俺を惹きつける。いずれ彼についてみっちり論じてみたい。

ガストン・バシュラール『蠟燭の焰』(澁澤孝輔・訳 現代思潮社)を読む。
もう「集中力」が切れてきた。バシュラールどころじゃない。やはり飲み過ぎたのかも。「自覚はなかったけど」。これはたぶん俺が「ステルス宿酔」と呼んでいるものだ。バシュラールには悪いけど最も琴線に触れた個所を引用してもう終わる。

寂しい丘に孤独を求めてやってきた人物は、彼の住居から五百メートルほどのところに燃えているランプに心を乱される。他人のランプが、自分自身のランプの傍らで得られる休息の邪魔をする。そこに生まれるのは孤独の競合だ。ひとは、孤りになるためには一人きりでいたいと思う。孤独の意味深いランプを一人きりでもちたいと思う。もし前方の孤独なランプが、なにか家事仕事でも照らしているのなら、もしそれがただの道具でしかなかったら、ボスコという、瞑想しつつある夢想家もなんら挑発されるところはないだろう。しかし、同じひとつの村のなかに二つの哲学的ランプとは、これは多すぎる、ひとつ余分である。

第五章 ランプの光

このあとジャガイモを薄く切ったものを焼いて食うわ。味付けはマヨネーズと黒胡椒。1350円の床屋に行きたいのだけど、問題は雨なんだ。レインが問題だ。R・D・レインを読みたくなってきた。さだまさしが聞きたくなってきた。「道化師のソネット」が聞きたい。スポティファイ頼むよ。さだまさしはしょうもない小説なんか書かないで歌だけを作っていればよかったんだ。「文学的才能」なんて無いんだから。売れると小説(みたいなもの)を書きたがる歌手や芸人って何なんだろうね。「旦那芸」って言葉を知ってるのかしら。斎藤美奈子ばりに論じてみたいものだけどそんな意志も力量もこちらにはない。俺はきほん天才しか相手に出来ないから。「関白宣言」なつかしいね。でも俺はこういう独りよがりでジェンダー意識ほぼ皆無のバカ夫は嫌い。感傷に浸るのが好きそうなところも嫌だ。「家族愛」の不潔さに気が付いてない点でもう人間失格。ちなみにこの曲の続編に「関白失脚」というのがあるがその詞がまた臭いんだ。けっきょく俺はさだまさしが嫌いなのか? セナ様の靴下になりた過ぎて苦しい。いまセナ様の御御足を包んでいる靴下に対するこの嫉妬をどうすることも出来ない。セナ様が住んでいる静岡県の者どもにさえ嫉妬を覚えてしまう。奴らのほとんどはセナ様のことを知らないんだ。自分らの近くに菩薩の化身がいることを知らないんだ。どうしようもない連中だ。「目明き千人盲千人」なんてよくいうけどあそこには目明きなんか一人もいないみたいだ。さんざめく俺の魂。悲しみのセレナーデ。暗黒物質あるいは、わさビーフ。桜田ファミリア。

【備忘】6000円

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