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精神の化膿

一月十三日

ウマ娘と通称される育成シミュレーションゲームが流行っているらしい。もう古いのかな。時代遅れの男ですみません。河島英吾です。
字面からしてつい誤想しそうだが、ウマ(美味)い娘ではありませんよ。変なこと考えないように。馬な娘ということらしいです。これこれでなんかヤバそうなんだけど。ぜんぜんいっさい知らないので怖いもの見たさにウィキペディアの記述を読んでみることにします。未知のことはやはりドキドキしますな。
「ウマ娘 プリティーダービー」はCygamesという会社が提供するスマホ向けゲームアプリ、PC用ゲームで二〇二一年二月に配信された。もともとはメディアミックスで放映されたアニメだそう。
ゲーム内容についてがっつりいうと、競走馬を擬人化した「ウマ娘」を育成し「トゥウィンクル・シリーズ」というレースでの勝利を目指すというもの。
多数の暇人様のおかげでやたらと詳しくなっているウィキペディア記事を通読しているうちにだいぶん興味が薄れて来たので、そろそろ話を変えたい。この種の「美少女育成ゲーム」に特有の絵柄に僕の精神はウンザリしているらしい。ところで日本のゲームやアニメの「美少女キャラ」ってどうしてこう千篇一律なんですかね。こんなのが溢れていればロリコン文化とか揶揄されても仕方ないよ。そう言われると、「俺は美少女や萌えには興味がない。単に育成ゲームとして面白いんだ」とか「弁明」する人が必ずいそうなのだけど、かりにそのゲームが美少女でなく中年オヤジに擬人化されたものだったらほとんどの男はやらないよね。たぶん美少年でもやならいのではないか。もはや一定世代の「異性愛的男性」にとってサブカルコンテンツの「萌え要素」は空気みたいなものであり、それゆえ自分がそこに性愛的執着を示していることにほとんど自覚を持たない。時代に浸透して久しいある表現傾向に「異様さ」を感じることの出来るのは常に「外部者」なのである。
大小様々のサブカルコンテンツを日々大量に消費しているプロ鑑賞者からすればそうでないのかもしれないけど、僕から見ればアニメやゲーム上の美少女はどれもこれもほぼ同じだ。たぶんこういう感想自体がごく陳腐なもので、その方面の熱心なファンからすれば「またか」といいたくなるようなものなのだろう。AKB なんとかというアイドルグループをみながら「みんな同じ顔にみえるわー」とか嘆いて見せる祖母を見る様な感じ。
生物や無生物を「美少女キャラ」に変換しすることを「萌え擬人化」と呼んだりすることは知っている(「萌え属性」とはなにかという問いは厄介なのでのちのちまた扱うことにする)。「ウマ娘」以前にも、艦隊を擬人化したゲーム(「艦隊これくしょん-艦これ-」)や兵器を擬人化したゲーム(「萌え萌え二次大戦」)というのがあった。あるコンテンツに特別の思い入れのある人にとって、それが「萌え擬人化」という「単純」な概念にくくられるのはひどく心外なのかもしれないけれども、分類というのはなべてそうした粗雑さとは切り離せないのである。ミケランジェロも売れない三流画家も「芸術家」として一様にくくってしまうのが分類というものなのである。あるいは、noteで下手な文章を書き散らしているナルシスト的ライター気取りも村上春樹も同じ「作家」という箱に入れてしまえるのが分類というものなのである。

『書こうとするな、ただ書け:ブコウスキー書簡集』を読む。ブコウスキーはあるだけぜんぶ読みたい。『ふしぎなキリスト教』も読み終える。大澤真幸の素朴をよそおったラジカル・クエスチョンにいちいち応答して見せる橋爪大三郎の学識には感心した。アマゾンレビューではムキになっている人がいるけど「一般向け」の対談本なんだからいいじゃない。キリスト教関連の文献は一生かけても眼を通せないほど膨大なのであまり深入りはしたくない。そういえばむかし「エホバの証人」の人たちと長い時間話しているとき、彼彼女らがイエスの再臨や千年王国を本気で信じていることにたびたび驚かされた。キリスト教原理主義者なんて海の向こうにしかいないと思っていたからだ。「エホバの証人」は制度的なキリスト教会では異端扱いで孤立している。孤立すればするだけ信仰者の自意識が先鋭化するのは、どの時代にも見られること。
ゾラ・ニール・ハーストン『ウードゥーの神々』を読みたいリストにいれた。
チャールズ・ブコウスキーの作品にはmicroaggressionどころではないhomophobicな表現が散見されるのでしばしばイラつかされるのだが、それがhomosocial的なmachoの健気な自己演出なのだとintellectualに達観できる僕としては、そこそこ冷静に読み進めることが出来る。フェミニズム文献を読むことの効用はこんなところでより実感できるのだ。僕の見るかぎり、「男らしさ(マチズモ)」を誇示していることにunconsciousな男ほど、内なるhomosexualityに敏感であり、それゆえ他者におけるそうした振る舞いにintoleranceとなる。きょうは学を衒いたい気分なので藪からスティックに英語を使います。ルー大柴モードみたいですみません。
自覚の有無はともかく、そうしたマチズモ志向を戯画的に演じたのが三島由紀夫だった。彼はがんらい蒲柳の質で「文弱の徒」だった。作家デビュー当初の写真を見ればよく分かる。
だがいつからかそんな自分が恥ずかしくなって、ボクシングや剣道をはじめたり、ボディビルでやたらムキムキになったり、自衛隊に体験入隊したりしながら、「理想の男らしさ」を追求していった。彼は太宰治が嫌いだと公言していたそうだけど、それはやはり太宰的な弱さへの同類嫌悪ゆえだろう。さいしゅうてきに三島は「楯の会」というホモソーシャル的な防衛共同体を結成し、そのうちの四人のメンバーとともに自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、クーデターを呼びかけ、割腹と同志の介錯により「自決」を果たす。こういう「時代錯誤」な死に方は「男の美学」として外せないものだったのだろう。三島由紀夫は徴兵を逃れている。そのことが彼の「人生」に複雑にしている。死や愛国心についての彼の「美学」はかなりのていど世代的(時代)的なものなのだと思う。そういえば三島とほぼ同時代をいきた吉本隆明もまたしょうがい「戦前」に呪縛されていた。特攻隊員のような「美しい死」がもはや不可能な戦後民主主義の「ぬるま湯」のような日本の中で、三島の「男らしさコンプレックス」がたまたまあのようなかたちで「暴発」した。冷静に傍からみればたしかに滑稽に映らないこともないのだが、戦後日本史の研究者さえいまだにこの「三島事件」をじゅうぶんには消化できていないだろう。いわんやその他大勢の凡庸な市民に消化できるはずがない。

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