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「戦う顔」の中野拓夢、木浪聖也

八月十七日

午前十一時五分起床。シリアル、紅茶。きょうは雨で歩けないだろう。
前言撤回の繰り返しだけど、今年の阪神はアレするかも。きのうマジックが点灯した。残り試合から考えてもう第四コーナーをまわったあたりだろうけど、広島横浜読売が追いかけてくる気配がない。今年のセ・リーグはおもしろい。おもうに阪神が強いのではなく他のチームが弱すぎるだけだ。阪神には誰もがビビるような大打者がいるわけでもなければ、オリックス山本みたいな絶対的エースがいるわけでもない。総合的な投手力で手堅く守り勝つチームだ(サヨナラ勝ちが多いのも無駄な失点をしないからこそ)。その点で一時期の落合中日に似ている。
近本中野の一二番コンビは見事にはまっている。中野など三割に乗せている。打ってよし守ってよし走ってよしの野趣あふれるスーパープレイヤーになりつつある(ついでに男前)。ドラフト六位だった彼はとにかく生き残りに必死なんだ。その緊張感がいつも顔と喉仏に出ている。それに比べ同期の佐藤はいかにもノンビリとした印象だ。「仁義なきレギュラー争い」とはまったく無縁そうな。そういう「鈍感さ」も適宜の切り替えの必要なプロには大事な素質なのだろうけど、成績が芳しくなかったり守備の怠慢などが目立ち始めるとどうしても、「ドライチ意識の上にアグラをかいている」ように見える。僕は中野のようなギラギラした面魂の選手のほうがずっと好きだ。
中野と二遊間コンビを組む木浪も今年は乗りに乗っている。八番で三割近く打っている。入団以来厳しい競争に揉まれまくってすっかり逞しいバトルフェイスになっている。彼が打てば九番打者(投手)まで回るので、打順のめぐりも当然よくなる。ショートの守備もそこそこ安定している。なにより動きが機敏だからダブルプレーも取りやすくなった。二遊間といえば荒木と井端の、いわゆるアライバコンビ。キナカコンビはまだまだ荒削りなところが多く(とくに送球)、アライバコンビとは比ぶべくもないが、二年後三年後は分からない。「球界一の二遊間」になっているかもしれない。

きのうもシオラン『カイエ』(金井裕・訳)に読み耽っていた。以下、ノートに書き抜いたもの。

いま電話でDに、こんなことを言う。人は三五歳で自殺すべきだろう。それ以上になると、肉体的に見られたざまではなくなるからだ。老いという原理、こんなものは受け入れてはなるまいし、皺という考えそのものも拒否すべきだろうと。

生きているという事実そのものを問題にする者だけが革命的なのだ。その他の者は、アナーキストを筆頭に、だれにしても既成の秩序に妥協している。

すべては根本的に不可能である。私は不可能のエクスタシーのなかに生きてきた。

希望に精根尽きはてる者もいれば、悔恨に精根尽きはてる者もいる。

病は、ある巨大な現実、生の本質的属性だ――生きとし生けるすべてのもののみならず、存在するすべてのものが病に晒されている。石でさえ病をまぬかれない。病んでいないのは空だけだが、しかし空に到達するには、病んでいなければならない。なぜなら、健康な者はひとりとして、空にゆき着くことはあるまいから。健康は病を待っている。病そのものの否定に、救いとなる否定にゆき着けるのは、病だけだ。

あらゆる文学は讃歌に始まり、礼拝に終わる。

あるアメリカの女性が、耳栓は役に立つと思うかと訊く。役に立たないと答えると、騒音防止法で何かいいものを教えてくれと言う。――ひとつだけありますよ、と私。――何ですか?――自殺ですよ。
彼女は黙ってしまった。

範と仰いだのは、放棄において余人の追随を許さず、世の語り草となったすべての人たちである。

すべての嫌悪感の根は、自分自身への嫌悪である。

いままでずっと、私は自分の崇拝するものを好んで踏みにじってきた。自分の偶像への反逆、これによってのみ、私たちは自分を定義できる。

悔恨は若いうちに身についてしまう癖、生きているうちは直せない。

もうやがて飯を食って、図書館へ行く。こんな判で押したような日々が俺は大好きなんだ。

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