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人はいつか死ぬ、らしい、

十月二六日

真の翻訳は透明であって、原作を覆い隠すこともなければ、原作の光をさえぎることもない。真の翻訳は純粋言語を、翻訳の固有の媒体である翻訳言語によって補強され増幅された分だけ、原作の上へ投げかける。

ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論(他十篇)』「翻訳者の課題」(野村修・訳 岩波文庫)

午前中、訪問者があって睡眠中断。ねむい。学生時代、英語の講師の「how are you?」にたいしてほとんどの生徒が「I'm sleepy」で答えていたことを思い出す(オイラは「I'm bored」がお気に入りだった)。同じボケをあえて二度三度繰り返すことをお笑い業界では「かぶせ」とか「天丼」というらしい。今日は木曜日なので執筆はお休み。古書店へ行くのも悪くない。古書店という言葉の、この蠱惑的な響き。

西部邁/富岡幸一郎『西部邁 自死について』(アーツアンドクラフツ)を読む。
西部の「自裁」後、彼の死にまつわる論考を集めたもの。思ったよりも劇薬的だった。以下はノートへの抜き書き。

人間は飢えれば生き延びんとして騒ぎたてるものだ、とよくいわれる。しかし私のささやかな体験では、それが自発的な選択であったせいかもしれないし、また強制された飢えはさぞかし怖いに違いなかろうと思いもするのだが、飢えて衰弱していくなかで恐怖というものを感じはしなかったのである。何も彼もが拡散していくような気分、つまり想像の力も理屈の筋も気力の方向も生活の形態も、すべてが溶けて流れて、その流出物のなかに茫然とたゆとうているという気分のなかに私はいたのであり、死の恐怖というものは感じなかった。

だから、ぼくの人生は、知情意の論理化を、日常と非日常の両次元にわたる形で、やっていたということにすぎないのです。僕と付き合ってくれた人々は、社交の場で論争が生じて僕が声を荒げる折に、「感情的に怒っているんじゃないのだ。論理的に怒っているのだ」と言っているのをよく聞かされるという羽目になっていたはずです。それは、相手の(仮説としての)発言が聞くからに謬見であるのに、なぜその仮説を棄却しないのか、なぜあらたな仮説を形成しようとしないのか、という抗議だったのです。自分の意識が形成され棄却され再形成されていく、その過程における信念と疑念の循環こそが、そして自分の発言の安住と誘拐のあいだにおける往復こそが、人間の「生きる」姿なのだと僕には思われます。

老いの醜さということがいわれるが、それは多くの場合、肉体的な問題としてある。そういう醜さはやはり精神的なものである。自分の死に方について覚悟を決めていないような、あるいはその必要すら感じていないような年寄りたちの最後の生の姿、つまり死に様が醜くみえるのである。

私の嫌う儀式主義の無自覚とは、自分はさも信心の厚き者であるかのように偽装して儀式に参加しておきながら、その儀式を単なる(キルケゴールのいった)「宗教芝居」としてしか演じていない連中のことである。

反発心を抱きながらもつい耳を傾けてしまう、西部邁はそんな「言論人」だった。彼の自死については複雑な思いがある。死屍に鞭打つようだけども、「自殺幇助」という形で結果的に他人を巻き込んでしまった彼の「死に様」のなかに、「美学」とは程遠いエゴイズムを私は感じる。「晩節を汚す」にも程があるのではないか。とはいえ、「誰の力も借りずの自裁こそが美しい」なんてタワゴトを言いたいわけじゃない。ただ、「ある老知識人のたっての希望」を叶えるのに「人生」を捧げた二人のことを思うと、他人事ながらどうにもやりきれない気持ちになるのである。わけがわからない。またあれだけchildishなものを嫌う素振りを見せ続けた西部が「神風特攻隊」を熱く賛美することには、どうしても理解が及ばない。だいたい彼の戦争にまつわる言葉にはどこか「戦争ごっこ」に興じる子供の無邪気さが漂っていて、権力由来の暴力をとことん憎む私などは、呆れざるをえないのだ。

もう飯食うか。

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