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排他的精神水域、「厭世学入門」、天体は神々の尿道結石、

十二月十八日

マフィアは十九世紀も現代も、イタリアでも(またアメリカでも)、一定の「地域社会」を支配することによって成立する犯罪結社である。その基本的な手段は私的暴力の行使である。当該地域の住民にはマフィアによる「保護」か「脅迫」かの二者択一が迫られる。マフィアはそうした選別をとおして地域社会に非合法的な人間関係を構築する。さらに、この人間関係は、宣誓による入会儀式や位階制的な規律を持つ秘密結社の構造を備えていた(アメリカにもシチリアから直接こうした構造が持ち込まれた)。というのもマフィアは聖人信仰にもとづく伝統的な信心会や兄弟団あるいはリソルジメント期に広まったフリーメイソンの強い影響を受けていたからである。そればかりかマフィアの世界観や道徳観あるいは行為規範にはカトリシズムの伝統が色濃く反映されている。

村上信一郎『ベルルスコーニの時代』「第二章 闇を支配する」(岩波書店)

午後十二時四五分起床。ばかうけ大学いも味を数枚、コーヒー。この味付けのばかうけを口のなかに入れることはもうないだろう。休館日。外ではずっと液体が落ちている。最初にこの液体落下現象に遭遇した生物はさぞ驚いたことだろう。「なんか変なものが落ちてきたぞ」となったに違いない。俺は月と呼ばれているものを見るたび、「なぜ誰もあそこに浮かんでいるあの変な物体の存在に驚愕しないのか」と驚愕している。俺はむかしから「人間の顔」は直視すべきではないと思っている。目とか鼻とか口とか耳とか呼ばれている器官が一極集中している顔という身体部位は私にとっては基本的に情報過多であり、それゆえ心痛もしくはパニックなしでは見詰められない。人の顔は明らかに「目を逸らさせる」ように私に働きかける。だから私は、「他人の顔」を五秒以上見続けられるのは<狂人>だけだ、と確信している。人間が犬や猫といった「動物」を愛玩することが可能なのは、その「顔」が(人間とは異なり)「目を逸らさせる」ようには働きかけてこないからだ。それを単に<眼差しの非対称性>で説明するつもりなどはない。事はもっと複雑である。ただ、人が「動物」のそうした「白痴的愛らしさ」の空洞のなかに吸い込まれてしまうのは、人がそこに「他者地獄からの避難所」を見出そうと努めているからではないか、とは言えそうだ。人間はつねに人間におびえている(たぶん大半の人間にはそうした自覚はないだろうけど)。そういえば「愛犬家」でもある辺見庸はいつかのブログで、「顔に毛の生えてない動物は怖い」と洩らしていた。エマニュエル・レヴィナスの「顔」という不穏な概念のことをいま思い出した。彼の<存在論的感性>を俺はあまり信用していないが、彼のこの「顔」についての考察にはある種の迫力を感じずにはいられない。さっきから錆びかけた剣山みたいな女の怒鳴り声が聞こえてきて不快だ。同居人と喧嘩しているらしい。「感情」というのもまた俺にとっては情報量が多すぎる。喜であれ怒であれ哀であれ楽であれ、他者の剥き出しの感情を前にするたび、俺の無生物への憧憬はいっそう強くなる。

岸田五郎『張学良はなぜ西安事変に走ったか(東アジアを揺るがした二週間)』(中央公論社)を読む。
一九三六年十二月に西安で起きた蒋介石監禁事件の詳細を記したもの。その前史を成している張作霖爆殺事件(一九二八年)や満州事変(一九三一年)のことをたしょう勉強して、その歴史的背景を知っておいた方がいいかも。歴史叙述本の例に漏れず固有名詞が続出するのでとちゅう頭が痛くなる。俺が「人物名酔い」と呼んでいるもの。抽象的思考に慣れ過ぎている頭にはかえって心地がよい。張学良、蒋介石、毛沢東、周恩来以外、ほとんど聞いたことがなかった。巻末には「西安事変関係者の一覧および年齢表」というのが付されている。林森という名前だけは覚えやすい。孫文の革命運動を支援したのち、蒋介石の南京政府に入り、国民政府主席にまでなった人。このごろ俺は中国の近現代史への関心がやけに強い。台湾と中国の関係が気になっているからかも。「習近平は鄧小平よりも毛沢東を好んでいる」といったことがよく言われる。いちじき俺は毛沢東にはまっていた。語弊を恐れずにいうと、俺は毛沢東という人物に惚れ込んでいる。たぶん同国人でもなければ同時代人でもないからだろう。彼の主治医だった李志綏による回想録『毛沢東の私生活』は面白すぎる。何度でも読める。
一九三六年といえばスペインで内戦が起こった年でもあるし、日本においては二・二六事件が起こった年でもある。二・二六事件についてはまたいずれみっちりやろうではないか。

モヤシ炒めて飯食うか。きょう遠出は出来ない。近所の書店で我慢する。

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