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ばかもの、くせもの、うつけもの

六月二三日

人あるいは俗諺の蒐集、研究のごときは、好事者流の閑事業なりといわんも、決して然らず、諺が昔より衆庶に愛好せられ、今もますます歓迎せらるるは、争うべからざる事実にして、処世上の主義方針として、顕著なる勢力を有し、幾多の歳月を経るも、依然として生気を失わず、あるいはただに郷国の民衆に愛好せらるるに止まらず、遠く外国にまで歓迎せられて根柢をすえ、あるいは『時劫』の洪波蕩々として、あらゆる古代の遺物を一掃し去れるにも関せず、ひとり諺のみ安全にその波上に浮びて、数千年の昔より今日に伝われるもの少からず。有名なる学者文士の。好んで諺を引用し、あるいは多数の労力を費して、これを蒐集せし例、また乏しからず。これらの事実に徴して、俗諺の価値を認め、その軽視すべからざるを知るべきなり。

藤井乙男『諺の研究』(講談社)

午後十二時半起床。紅茶、かにかま。隣のジジイ問題は不滅。やつが存在していることに気が付くたび心で泣いている。俺はすべての隣人が嫌いだ。隣人とは雑音であり異臭である。あばば。

カンタン・メイヤスー/千葉雅也『亡霊のジレンマ:思弁的唯物論の展開』(岡島隆佑・他訳 青土社)を読む。
『有限性の後で』の「副読本」のつもりで読んだのだけど、SFの限界とその突破の可能性を論じたⅣ章「形而上学と科学世界のフィクション」とⅥ章 「減産の縮約」の一部はそれ以上に興奮しながら読んだ。Ⅳ章においてダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』が紹介されていたのには嬉しみを感じた。その続編である『宇宙の果てのレストラン』と『宇宙クリケット大戦争』を読むのを僕は楽しみにしている。Ⅵ章は、「死」をめぐる議論が大胆で面白い。綿密な哲学議論というより超科学的文学として読んだ。知覚は知覚対象よりも「小さい」。生物であるとは「知覚」を取捨選択し続けることであり、死ぬこととはその純然たるカオスに開かれてしまうことだ。これは途方もなく恐ろしいことである。だから「凡人」は堕落的な「生」を保守し続ける。「認識」への衝動はつねに狂気に開かれている。それでも哲学はラジカルに問い続けなければならない。「ある」という雑然地獄の只中に飛び込んで。この章のなかで批判的に論じられているアンリ・ベルクソン『物質と記憶』を私はまだ読んだことがない。これを機に熟読・格闘してみるのもいいかも知れない。

ジョルジュ・バタイユ『内的体験:無神学大全』(出口裕弘・訳 平凡社)を読む。
埴谷雄高とE・M・シオランとジョルジュ・バタイユに共通する<魔性>とは何だろうか。彼らはつねに不可能なこと愚直なまでにを欲望している。「俺は人間であるということに不快だ」と喉が裂けるほど叫び続けている。バタイユのいう「全一者」「至高性」ほど滑稽で空しい観念はないだろう。それは「実現しないこと」によってのみ「目標」たりえる何かであり、追い続けている間しか見えない永遠の幻影なのだ。追うのではなくいますぐそこに飛び込まねばならない。臨済の前で普化が御膳をひっくり返したのも弟子の前で南泉が猫を斬り殺したのもそうするしかなかったからだ。認識とは転覆だ。即自的回転。実践的証明。現存在と同じ地平上の「何か」との相関性を突破したところでしか、それはありえない。「認識」は「観照」ではないのである。この二つを峻別できない木偶の坊が「本質」だの「純粋」だのべらべら語る。

すなわち、体験においては、言表は何ものでもなく、何かであるとしても一個の手段であり、さらにいえば、手段であると同時に障害でもあるのだ。肝心なのはもはや風の言表ではなくて、風そのものなのである。

第一部 内的体験への序論草案

バタイユはこんごもしばらく私の参照項(伴走者)にはなりうるだろうけど、ある標高の地点からは彼と完全におさらばしなければならないだろう。もしバタイユがいつまでも自分の「遅鈍」な思弁圏をありがたがってうろついているトンマをみかけたら、やはり蹴倒したくなるのではないかな。その点でバタイユは「哲学者」ではないし、もちろん「思想家」でもない。誰からもその心中を理解されない狂った「聖者」だった。

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