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「社会」という人間地獄について、メダカの大学、カエルのケツにシャーペン、北の将軍様の直腸に美を感じる俺、

八月三一日

正午起床。疲労蓄積なのか起きるのがややしんどくなってきた。毎夜めっちゃ歩いてるからな。涼しくなってきたら一度昼夜逆転させるかな。今年のセ・リーグ優勝はほぼ間違いなく広島だろう。祝いの言葉をさきに述べておきたい。このごろなかなか書店にいけない。いま読んでいるウエルベックの小説がおもしろいのでべつのやつも買いたいのだけど。ハート『法の概念』、レッシング『ラオコーン』、柄谷『世界史の構造』を年内に必ず精読すること。《棘状観念移動体》の原稿はそこそこ順調。

ジョルジョ・アガンベン『オプス・デイ(任務の考古学)』(杉山博昭・訳 以文社)を読む。
《ホモ・サケル》シリーズのなかの一冊。以文社はいい本を出している。デヴィッド・グレーバーの大著『負債論』を出しているのもここ。訳者は解説のなかでアガンベンの議論を『負債論』とうまく接続させている。

したがって西洋の伝統には、異なりつつも紐づいているふたつの存在論が根ざしている。第一の存在論は、命令の存在論である。この法的―宗教的領域に固有な存在論は命令法として表れ、行為遂行的な特徴を帯びる。第二の存在論は、哲学的ー科学的伝統に固有な存在論である。

 ふたつの存在論、あるいは、いかに義務は倫理になったのか

本書は「負い目」についての研究ともいえる。カント倫理学に特徴的な「義務」の形成過程が、フーコー的読解によって跡付けられる。「当為(すべき)」や「命令(せよ)」によって構成される存在論。あいかわらずラテン語多めだが慣れてくる。アガンベンの文章は教訓的ではない。糾弾的でもない。きほんてきに「文献をして語らしめる」というクールなスタンス。
それにしても、「~すべき」と口にするたびに感じるあの気持ち悪さはなんなのか。本書はそれを考察するいいきっかけになった。こんなだらしないオイラでも何かしらの「義務感」に苛まれないわけではない。「無為に過ごすこと」にいつまでも慣れることができない。オイラはこのことを「人としてちゃんとしないと問題」と呼んでいます。社会内存在である「人間」はおおかれすくなかれ、「このままではいけない」という焦りによってしじゅう突き動かされている。「何ものかとしてある」とは取りも直さず「何ものかであれ」ということなのである。この「無限の負債」感覚と向き合うことに失敗した結果としての抑鬱はもはや「時代の病」。人はだいたいいつも生き続けていることに漫然と疚しさを感じている。自殺は一種の「自己犠牲」。子供をつくるのも、そうしないと「共同体の一員」になれないような気がするから。人としての義務を果たしていない、と思われたくないから。返すべきものを返した気がしないから。与え与えられるの経済圏で生きるにつきまとうこの息苦しさ。オイラがアナーキズムに惹かれるのはこの「経済の牢獄」でいつも窒息しかけているからだ。「社会」は人間だけしかない地獄である。ひえええええええ。

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