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人生朝露のゴドー、青春の陰間茶屋、ほとんどの人間は自分の「惨めさ」に気が付いて因幡の白兎、とんま豚足、

四月二〇日

船のかじを取る人として、船客の中でいちばん家柄のよい者をえらぶようなことはしない。

パスカル『パンセ』(田辺保・訳 角川書店)

午前十時四分。緑茶、オーザック。信じられないほど早起き。さだまさしの「驟雨」がさっきから脳内でヘビロテされている。なぜだかしらんが早朝覚醒のせいで実感として五時間も寝られなかった。このごろの悩みは図書館に行って本を読む気がぜんぜんしないこと。「自分のやりたくないことをやる」というのは自己虐待であり大罪である。どうしても行きたくない日は無理して行かなくてもいい。昨日はアニオタのコハ氏と三時から二時間半ほど対談。多忙よりも倦怠の方が人間を激しく蝕みうること、あと学校や就職活動に適応できない人間のほうがマトモだということで意見が一致。ふだん人と長時間しゃべることが少ないのでたまにこうした時間をつくらないとますます隠者的すなわち社会不適応者的になってしまうおそれがある。夜七時にダイス氏と三か月ぶりに南砺市の温泉へ。この人には間が持たなくなるとアクビをする非紳士的な癖がある。そういうのは一緒にいる俺に失礼だと気が付いて欲しいものだけど。とちゅう金沢大学生とおぼしき若者が六、七人やって来る。尻が引き締まっていて綺麗だ。尻はその男の「すべて」を語る。やはりフルチンの付き合いはいいもんだね。他人の「青春」はいつもまぶしい。大学生同士なのに会話があまり知的でなかったのが残念。背伸びして抽象的な議論に耽ることが出来るのは今だけなのに。あと何年かするとこの子らも馬鹿で凡庸な家畜的「社会人」になっているだろう。さいきんは句作と作歌に凝っている。ただ私は「切れ字」についてさえほとんど何も知らない(「きれじ」を漢字変換すると最初に「切れ痔」が表示されるんだけど)。

秋の日や毛脛も若く体育祭

おとつい作ったこれなどわりと気に入っている。体育祭は秋の季語(子季語)だ。素人のわりになかなか上出来ではないか。たぶん俺には句作の才能がある(うぬぼれる才能はそれ以上にある)。毛脛といえば俺は与謝蕪村の、

痩脛の毛に微風有更衣

が好きで、これほど繊細な皮膚感覚を外連味もなく詠んだ句は他に知らない。蕪村では他に、

秋風にちるや卒塔婆の鉋屑

もいい。ちかく蕪村全集に眼を通したい。古書店にあればいいのだけど。できれば均一本で。ちょっと眠くなってきたんだ。一行書くのにさえ苦心している。あくびが止まらない。いまからすこし仮眠をとります。それからヘミングウェイの短篇集とバシュラールの『蠟燭の焰』を読んで、散歩がてらに買い物して、masturbationして、水割りの威士忌を飲んで、三遊亭圓生の落語を聴いて、寝る。漢・森下翔太がきのうホームランを打った。本塁打王を狙っちまえよ。ぱっくんまっくんけつまくり光線。東王のララバイ。与那国島からの手紙。利己的な熾天使。ジャニー喜多川の流れのように。【備忘】爺さんに一〇〇〇円。

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