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遅かれ早かれやがて死ぬ人間たちが、きょうも、まるでいつまでも生きるつもりであるかのような顔で、生きている、

一月十九日

貧しさと階級。階級の概念すら商品化されてしまっている。ふたたび言おう。中産階級の観客が突然目に見えて(過剰なまでに)階級の問題にこだわるのは、有色人種が作った有色人種についての映画という文脈でのみ見られる現象だということを。

トリン・T・ミンハ『月が赤く満ちる時(ジェンダー・表象・文化の政治学)』(小林富久子・訳 みすず書房)

午後十二時五分離床。チーズアーモンド五枚、緑茶。目覚めてすぐに「へずまりゅう」という固有名詞が頭に浮かんだ。きょうはたぶんあまり調子のいい日ではない。生きるというのは自分が会ったこともないどうでもいい人間の名前を全身に浴び続けることだ。萩生田光一、森喜朗、世耕弘成、岸田文雄、堀江貴文、大谷翔平、尾木ママ、ベンヤミン・ネタニヤフ。楽園とはきっとマスメディアもSNSも存在しない世界だろう。愚劣。ぐれーつ。ぐれつ。ぐれーーーつ。ぐれえつ。GURETSU。ちなみに俺は自分の「名前」を知らない。覚えていない。それは<私>とはなんの関係もない記号。ただ馬鹿者どもは俺にむかって「お名前は?」とか聞いてくる。そのたび俺は「存在者だ」と答える。もちろん俺は「存在者」でさえない。

E・M・シオラン『実存の誘惑』(篠田知和基・訳 国文社)を読む。
ひさしぶりのシオラン療法。俺がシオラン離れできる日は来るのだろうか。それは俺がこの残酷宇宙に圧殺されたときだろう。ノートに抜き書きしたものを並べる。

ひとつの文明に有機的に属しているものには、その文明を蝕んでいる悪がどんなものであるか知ることはできない。その診断は、少しもあてにならない。文明批判は、結局、自分を判断することになるからだ。エゴイズムはそれを手加減する。

亡命とはどのような形で表われるにしろ、またどんな原因を持っているにしろ、そのはじまりは目まいの習得だ。

言葉に信頼をよせるものは、たとえ、あらゆる知恵の頂点にいようとも、隷従と無知の中にとどまる。その逆に、言葉に反逆するもの、あるいは恐怖をもって言葉に背をむけるものは解放に近づく。

たったひとつのこと、たったひとつの言葉が大事なのだ。われわれが話すのは、この唯一のものを発見しなかったからであり、将来も発見できないからなのだ。

彼が明晰であること、それは否定できない。しかし、忘れてはならないことは、明晰さというものは、愛することができないために、他人のみならず、自分自身とも袂を分つ人々に特有のものなのだ。

「愛してるなんて本気でHしたら」(大黒摩季「夏が来る」)。この「H」ってはどうやら性交のことらしい。語源については諸説あるが、「Husbandの頭文字」説と「Hentaiの頭文字」説の二つが有力。「どっちも正しい」ということもありえる。語源については俺は容易に納得しない。「Hentai」はたぶん「変態」のこと。変態とはもとの姿が変わった形態もしくは異常な状態のこと。「あいつは変態だ」といった使い方がある。これは「あいつは異常だ」ということ。「異常」とは「普通ではない」ということ。俺は「普通」が分からない。だからもうこれ以上語れることはない。ひとつだけはっきりしていることは、俺がいまから麻婆丼を食うということ。世界は今日も残酷で人々は救いがたいほどに愚かであるということ。「ひとつだけ」って言っただろ。ますたーいつもの。

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