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クズは孤独を愛せない、ギブミー哀愁、神々の乱交パーティ、ゲスどものお喋り、超人クラブ、C調言葉に騙されたい、

六月十三日

「苦悩は意識の唯一の原因である。」(ドストエフスキー) 人間は二つのカテゴリーに分けられる。この言葉を理解した者とその他の者とに。

E.M.シオラン『涙と聖者』(金井裕・訳 紀伊國屋書店)

午前十一時九分。紅茶、ブルボンエリーゼ。また暑いね。きのう久しぶりに図書館行ったよ。さすがの俺もそう毎日暑熱のなかを何時間も歩けない。散歩は夜した。ついでにゲンキーで若鶏肝とネギを買った。エアコンのフィルターを洗った。こんやあたり試運転しようと思う。暑いからもう脱ぐわ。ところで一人暮らしのマスかき野郎どもは寝るときどんな格好しているんだろう。俺は夏でも冬でもTシャツ(あるいはタンクトップ)にボクブリ。ワイルドに全裸で寝る奴もけっこういるらしいけど、そうするとシーツがすぐに尿(あるいは精液)臭くなりそうだし、陰毛だらけにもなりそう。酒のせいか俺たまに夜間頻尿モードになるから全裸でベッドインは出来ない。中途半端に「綺麗好き」なオイラとしてはシーツの洗濯頻度が増すのは嫌だ。しかし長いものを履いて布団に入るとどうしてあんなに気持ち悪いのかね。脚の肌と脚の肌の接触を妨げられるからか。こういう自体的肉快感を軽視すべきじゃないよ。自体的肉快感というのはいま作った言葉。似たような「専門用語」が既にあるかも知れんがそんなこと知ったこっちゃねえ。ちょっと雲古してくる。ちなみに脱糞の気持ち良さも自体的肉快感に入れていい。今日の日記はいつも以上に汚いな。こんなものが読まれるはずがないよ。最初から最後まで「俺の俺による俺のためのオナニー的雑文」でしかないんだから。他の低能どもの糞下らない身辺雑記や利いた風な自分語りを笑えないよ。最低凡庸なゴミ雑文を頼まれもしないのに世に排出し続ける死に損ない糞野郎としての私。卑下もここまでやれば滑稽。そういえば阪神に秋山拓巳っていたね。制球力だけで食ってる投手、という印象だったけど。いまどうしてんの。もうこのまま消えていくのかな。ああ無情。さんざめく街角。

スラヴォイ・ジジェク『パンデミック 世界をゆるがした新型コロナウイルス』(斉藤幸平・監修 中林敦子・訳 Pヴァイン)を読む。
緊急出版もの。2020年刊。いちおうジジェクのにわかファンなので読んでみた。今更か、という感じがしないでもないけど。外にはまだマスクしている人がまだけっこういる。「収束した」とは言えないんだろう。そも「収束」ってどういうことなの。俺の周りには感染者は(たぶん)いなかったから「禍」という実感はほとんどない。俺としては人類の半分以上が死んでくれたほうがよかったんだけど。いや全部でもいいんだよ。さしあたり人間こそ「諸悪の根源」だと思っているから。まともな人間ならそう考えるに決まっている。ジジェクのアクロバティックな論法は相変わらず。この人は哲学者としては二流だけど思想芸人としては一流だ。何言ってるかよく分からないときでも面白いもんね。同じジョークを何度読まされてもウンザリしないし。とちゅうジジェクに子供がいることを知って甚だ失望。「哲学者」なのになんで結婚して子供まで作ってんだよ。彼にはある程度の敬意を抱いているのでこういう言い方はしたくないんだけど、哲学者たるものそのへんの不潔な凡人と同じことすんなよ。「慣習の罠」を涼やかに拒否する素振りくらいは見せてくれ。でないともう読む気がしない。
さあ昼食。ご飯温めて、シーチキンのせて、醤油かけて、食う。炒めたネギと一緒に。あなたはトニー谷とサダム・フセインのどっちに抱かれたいですか。私とウォンビンのどっちに抱かれたいですか。いやんえっち。

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