妖精系男子、美的衝動、知覚変動、不快ものをすべて壊したい、森の中の砂丘、魔法使いアベベ、天使の毛脛、
三月十日
午後十二時三分。源氏パイ、チーズおかき、紅茶。布団から出るのにきょうも著しい苦痛を感じた。フサギの虫がまたすだき始めているよ。「何もない」というのがいちばん好ましい。哲学的にみてその文が「何」を語っているのかはまだよく分かっていないのだけど。むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいませんでした。めでたしめでたし。どこにいっても妖精系男子をみかけるようになった。うなじの髪の生え際がとても綺麗だし、「性欲なんかありません」みたいな顔をしている。眼の保養になっていい。「妖精系男子」というのは男子評論家でもある俺の造語だから解説が必要かもしれないけど直観的に理解してくれ。しかし俺は一体いつも「誰」にむかって書いているつもりなのだろうね。少なくともそこそこ「知性的」で「繊細」でかなりの「宇宙的狂気」を飼いならしながら生きている「自殺未遂者」をぼんやりと想定していることだけは確か。どんな規模であれ他人の眼に開かれた場でものを書くことは他人の時間を奪うことでもあるのだけど、このことをじゅうぶんに意識している人がどれくらいいるのだろう。「何かを贈与しなければ」という情熱はそこにあるのだろうか(さいきんは反語表現が多いね)。『ツァラトゥストラはかく語りき』の無限の贈与者としての太陽をいま思い描いている。
デモクラシータイムスをみているとしばしばうんざりしてしまう。「メディアの権力批判」をシニカルにくさすことが「クール」な身振りだと思っているらしい愚民が相対的に増えているらしいなかで、こういう愚直な左派系インターネットメディアはできれば「応援」したいのだけれども、定型的に「少子化」を憂えたり「国の借金」を憂えたりするのはいい加減よしてほしいね。人々に「ただしい悲観」や「ただしい絶望」の作法を教えるのも「メディアの使命」ではないですか。問題はつねに「きょう自殺するかしないか」であって「日本の未来」のことなどどうでもいいのだ。そんなものがあると思っているのは頭の狂った楽観論者だけだ。私は年中いろんなものにツッコミを入れているので心の手の甲が腫れ上がっている。
ハキム・ベイ『T.A.Z. 第2版 ― 一時的自律ゾーン、存在論的アナーキー、詩的テロリズム』(箕輪裕・訳 インパクト出版会)を読む。
アジビラ。怪文書。紙の爆弾。抜き書きしたものを並べてみる。
「制御された狂気炸裂」の見本を見ているよう。「ロゴス的狂乱」。「何を言おうとしているか」はさして重要ではない。しいて要約するなら「お前はお前流に暴れろ」ということか。いやもっと「複雑」なことも書いてたぞ。ボードリヤールとかシチュアシオニストなんかも論じられていた。でもそんなのがなんだっていうんだ。「私の疑問」や「私の不快」や「私の欲望」を語るのに他人の出る幕はない。まして虎の威を借りる必要などはない。プラトンだとかデカルトだとかスピノザだとかショーペンハウアーだとかラカンだとかデリダだとかドゥルーズだとかそんなビッグネームを出さねば何も語った気になれないようなやつが多すぎる(これはたぶん「自己批判」でもある)。はっきりいうてね、俺はそんなやつらよりもはるかに鋭く何かを洞察してるつもりなんよ、おーん。じっさい「何ものかがすでに存在している」ということへの俺の驚愕をいま名前をあげたやつらの著作の中に見出すことは不可能なんよ、おーん。彼らと共有できない「問題」のほうが圧倒的に多いのだ。だから俺は「哲学書」と呼ばれているものはあまり読めない。俺からすれば古今の「哲学者」の大部分は二次的三次的な問題に頭を突っ込みすぎているように見える。あらゆる洞察は<私>がするものであって<他者>がするものではない。。
自虐は<選民>のプロテクターである、と机上のメモに書いてあるけど、少しもピンとこない。昨日お前が書いたんだろ。
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