見出し画像

「不安」について、造反有理、カカシ理論、活魚宝石、歯医者復活、

十二月二六月

強迫症患者は、しばしば治療者に嫌われるとまでは言わなくとも煙たがられてきた。二十年前には「強迫症患者をまともに診ようとするのは酔狂だ」とまで公言されていたが、さすがにそれは影をひそめた。多少の進歩はあったのかも知れないが、裏でどうも強迫症は苦手だといっている治療者はすくなくないと思う。面接者は、うんざりしながら、強迫症患者の〝しつこい〟繰り返しを「これも仕事の一部だ」と思ってがまんして〝聞いてやって〟いることがしばしばである。

中井久夫『世に棲む患者』「説き語り「強迫症」」(筑摩書房)

午後十二時四〇分起床。珈琲、ロイズチョコ、三幸製菓のなんか。椅子の骨が気になり過ぎてもうすでにイラついている。こんどクッション買わないといけない。というか椅子だ。腹立つからいまクッションを床に敷いて膝立ちでパソコンに向かっている。

椅子が俺の敵になりつつある

爺さん問題のことはもう考えないし書かない。ってもう考えてるし書いてるよ。「シロクマのことは考えないでください」と言われたグループのほうが、「シロクマのことを考えてください」と言われたグループよりもシロクマのことを考えていたという心理学の実験のことをいま思い出した。「考えないと思ってしまった時点で負け」ってことか。
さいきん脚の血流が悪くなるとシューベルトの「楽興の時 第三番」に合わせて踊っている。らいねんは創作舞踊にもエネルギーを注ぐことになりそうだ。

ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』(阿部大樹・編訳 講談社)を読む。
ひじょうに役に立った。これからも読み返すだろう。各論考の前に付された《訳者ノート》はビギナーにとっては助かった。サンキュー。サリヴァンといえば、その日本への積極的な翻訳・紹介者である中井久夫の名を忘れてはいけない。だからかこの二人の著作の「文体」はどこか似ている。中途半端な要約をするよりも、付箋の貼ってある頁からの引用をいくつか並べたほうがよさそうだ。

対人の場のなかに人間はいます。鉄粉の模様が磁場について教えてくれるように、人間の振る舞いをみればそこに作用している場の力が分かります。しかし重要な点は、鉄粉とちがって人間がただ一時点の力学にだけ動かされているのでなくて、遠い過去にあった対人の場にもまた影響されている点です。これまでどのような対人の場にさらされてきたか、その歴史というか時系列、あるいは経験とその顛末が、新しい対人の場におかれたときの「反応性」を決めます。

「精神医学入門三講」

不安はいつも必ず、多数の不承認に晒された体験に根差しています。そしてその体験が抽象化されることによって表面に浮き上がってくるのです――すなわち自分についてまわる幻想上の人物像が作られることになります。その一部は空虚な理想論を言ってくることもありますし、また別の一部はほとんど現象学的に明らかな人物たちphenomenologically evident peopleとして立現れることもあるでしょう。
他者から向けられる非承認はするりと忍び込んできて、そのせいで不安があちらからこちらから私たちの感情に、情動に、衝動に手を入れてきます。その作用はあまりにスムースであるために、人生のどれほどが不安によって枠付けされているかと気付くことができるのはごく少数だけです。

「「個性」という幻想」

はっきり言い直しましょうか。対人関係を良くする方策を得るためには、脚光を浴びたい拍手喝采されたい気持ちを自覚しておくことが大切です。それがうまくいかないとき自分がどれほど不安になるかと知っておかなくてはなりません。

「不安の意味」

人格personalityとはまず第一に、ヒトという可塑動物に被せられた、文化なるものの産物である。西欧文明といえども不均一であって、その内側に多くの下位文化をもっている。下位文化の間では矛盾や対立のあることが珍しくない。そのなかにある個々の人格とはどういっても<様々な対人関係を取りまとめる比較的に持続的なシステム>以上のものではないだろう。いずれは満足とか安全保障の感覚に回収されていくものだ。人格が成長していく途上には障害物とか、余計な口出しばかりであるから、そのせいで前進と後退を繰り返し、そのうちに落ちぶれていく。それでいながら自己意識self-consciousnessは人格のことを独立独歩で、一定不変で、無矛盾なシステムとして認識する。自分で自分について語るときはとてもシンプルで、今日の記憶と昨日の行動が違っていても気にはならない。だからこそ逆に、言行不一致を他人から指摘されると人間はまったく落ち着かなくなって、自尊感情が傷つくことを恐れて「何か」しなければいけない気分になる。

「プロパガンダと検閲」[原文傍点→太字]

さて、「意識される」対人的なプロセスには、いつでも擬人化personificationの作用が含まれている。固定化されているか流動的であるかにかかわらず、対人の場の一部となっている。(幸運にも一切邪魔が入らないとして)見知らぬ二人がであうときには、会話しているうちに互いの擬人化がこなれていって、全体としては妥当なところに落ち着いていくものである。

「緊張――対人関係と国際関係」[原文傍点→太字]

いまの私は「不安」という概念にとりわけ関心がある。だからサリヴァンの著作とは今後さらに深く付き合っていく必要があるだろう。「爺さん問題」などは存在しない。これは「私の問題」なのだ。

もう昼食とする。四時には入ろう。俺に読まれるのを待っている本がたくさんある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?