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誰だって学歴詐称したい、貧乏暇あり乱読ゲリラ、脳内殺戮セラピー、

四月二四日

資本主義の歴史においては、すべての事柄のなかに労働と労働力の尺度の政治的性質が現れているように思われる。賃金は金融化における株価の論理に絶対的に従属する一方、ケインズ理論とは無関係の変数として機能してきた。

マウリツィオ・ラッツァラート『耐え難き現在に革命を!』(杉村昌昭・訳 法政大学出版局)

午前十一時二九分。即席珈琲、扁桃、貯古齢糖。気分はそこまで悪くない。天気はいまにも崩れそうなので遠出は出来ないだろう。花粉の季節が終わるとこんどは雨降りが続く。「人生」なんてそんなもんさ。ダンカンのバカ野郎。小池のババアがカイロ大を出たか出てないかなんてことよりも、彼女のような「本物の政治屋」がなぜ都知事に選ばれたのかということのほうが、ずっと気になる。昨夜はイオンで真ダラの皮なし切り身と鶏のもも肉とえのき茸を買った。真ダラの身は加熱すると崩れやすくなることを知った。坪内稔典の編んだ『漱石俳句集』は思ったより面白い句が少ない。昼の蚊を吐く木魚みたいな滑稽味の強い句をたくさん期待してたのだけど。とはいえさいきん知ったのだが、このよく知られた句は江戸時代の狂歌師・太田南畝からの「パクり」(あるいは本歌取り)である。押し並べてどんな句集においても感嘆させられるような句は十指にも満たない。自分で句作してみるとよく分かる。

骸骨やこれも美人のなれの果

はわりと好き。浄土真宗中興の祖とされる蓮如の「白骨の御文」を思い出すかもしれないが、これの「元ネタ」は藤原義孝の詩句とされている。川口久雄が訳注している『和漢朗詠集』(講談社)がたまたま近くにあったので引いてみる。

朝に紅顔あつて世路に誇れども
暮に白骨となつて郊原に朽ちぬ

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」もそうだが、この種の「はかなさ萌え」は日本の古典文学の必須要素と言ってもいい。こういうぼんやりとした「共同体的」感傷に浸るばかりで精緻根源的な哲学に向かおうとしない「日本人」が、俺は昔から嫌いだった。個人的には漱石といえば「尻句」である。尻が出てくる句に詰まらない句はない。

仏壇に尻を向けたる団扇かな

桶の尻干したる垣に春日哉

秋風や屠られに行く牛の尻

どつしりと尻を据えたる南瓜かな

そういえば室生犀星の句に、

梅青の臀うつくしくそろひけり

というのがあった。生物の尻にも非生物の尻にもどこか憎もうにも憎めない孤高の愛嬌がある。存在論的迫力。

臀部そのものが人間本来の寂寥〔ソリチュード〕について、何事かを訴えているという点においては、可愛らしいお尻、きれいなお尻、心をそぞろにならしめるお尻の場合と更に変りはない。だから、時たま無作法な不意な漏音はあるにしても、哀れさと諧謔味とをこちらは覚えこそすれ、お尻そのものへの反感などは起り得よう筈はない。

稲垣足穂『少年愛の美学』「第一章 幼少年的ヒップナイド」(河出書房新社)〔ルビ〕

森下翔太がバッターボックスに立つたびお尻に目がいくんだ。彼はとても逞しいお尻を持っている。漢尻。きっと大打者になるだろう。3割30本100打点も夢じゃない。さっきからTMレボリューションが脳内再生されているのでもう終わる。十六羅漢。ジャック・ラカン。衆生導くラフレシア。マイナスイオンと贋造紙幣。悲しみのロングアイランド。聖性を帯びつつある、便所裏の、ドクダミ。

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