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小便小僧と小便少女;岩にしみ入るセミコロン;かわずとびこむセミコロン;つわものどもがセミコロン;鐘が鳴るなりセミコロン;

一月十五日

こんにち世界中に存在している小便小僧の本家本元はベルギーブリュッセルにあるものとされている。早ければ一三〇〇年代後半、すくなくとも一五世紀にはこのような像があって、現在のブロンズ少年像は一六一九年フラマン人彫刻家ジェローム=ドゥケノアの制作したもの。「ジュリアン坊や」といった愛称が定着している。とはいえ原物のジュリアン坊や像は一九六〇年代に紛失しており、いま設置されているのはそのレプリカ。ねんじゅう裸だからなのか、頼んでもいないのにせかいじゅうから衣装が送られていて、たびたびそうした衣装を着せられている。グーグルで画像検索するとエルビス風コスチュームや宇宙服なんかに身を包んだジュリアン坊やが見れてしばらくは愉しめるがすぐ飽きる。
ちなみに小便小僧のちかくには屈んで放尿する少女像もある。へぇへぇへぇへぇへぇへぇで6へぇ。小便小僧の潔さにくらべ屈む姿勢にはやや猥褻感がある。だから小便少女は日本でも見かけない。フェミニズム的観点からの考察を待ちたいところだ。
そもそもなぜ小便小僧なるものが作られることとなったのかについては諸説あるが、なかでも面白いのは、敵軍がブリュッセルを包囲し城壁を爆破しようとするさいその導火線を小便で消したという少年の伝説だ。んなわけあるかという荒唐無稽な話ほど語り伝え甲斐があるというものだ。

一時半ごろ図書館向かう。『記憶の図書館』を読み進める。レオポルド・ルゴーネスというアルゼンチンの詩人・作家について語られたぶぶんが妙味深く、この気難しく高踏的だったらしい人物の著作を読みたい気になった。

五時半ごろ友人と落ち合いしばらくのあいだ読書談議に花咲かす。昔かよっていた大学近くの定食屋でカレーをおごってもらう。友人はいま執行草舟という人物にはまっているらしく、その著作をぱらぱら読ませてもらう。この人は実業家でありながら著述家としても活動しているらしく、さいきんではミゲル・デ・ウナムーノの長篇詩『ベラスケスのキリスト』の監訳も務めている。監訳とは翻訳されたものを「監修」することで、要は最終責任を持つということだ。読書人にはすでに周知のこととおもうが、翻訳の出版物にはよく名の知れた学者などが「監修者」もしくは「監訳者」として堂々と表記されている。なぜか。身も蓋もなくいうなら、まずは本の権威付けでしょうな。わりと知名度の高い人の名前が表紙にあるだけで売れ行きもちょっとよくなる。「監訳・養老猛司」とか「監修・宮台真司」なんて表紙にあるだけでその愛読者を引き寄せることが出来るわけね。それに最終的な通読チェックもいちおうしているのであれば全体の品質もそれなりに高まるはずだ。一冊の本を複数の訳者が分業して翻訳するというばあい、「訳語の統一」はかなり重要になってくるが、それも「監訳者」というリーダーがいたほうがやりやすい。とはいえこのへんの本当の裏事情は出版界の内側の人にしか知り得ないのかもしれない。翻訳書をねんじゅう読みまくっている僕としては、リアルな事情を知って幻滅したくない気持ちがあるので、これいじょう深入りはしない。
とまれ『ベラスケスのキリスト』は私が信を置く法政大学出版局ウニベルシタスから出ているものなので、近く読んでみようとは思う。

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