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「いかにもnoteっぽいタイトル」が苦手な件もしくはビートたけしと愉快な仲間達(閉め忘れたケチャップが世界を救うかもしれない)

七月十八日

門番の死は、人をとまどいさせるような数々の兆候に満ちた一時期の終了と、それに比較してさらに困難な一時期――初めの頃の驚きが次第に恐怖に変って行った時期――の発端とを画したものであったということができる。わが市民は、後になって思い当ったのであるが、この小都市が、鼠が白昼監視のなかで死に、門番が奇怪な病のために死亡して行くところとして、特に指定された場所でありうるなどとは、夢にも思っていなかった。この点からしても、彼らは結局誤っていたのであり、彼らの考えは修正すべきものがあった。それでも、もしすべてがそれだけにとどまったならば、習慣がおそらく勝ちを制したであろう。ところが、市民のうちでまだほかにも、しかも、必ずしも門番でも貧乏人でもない人々が、ミッシェル氏がまず第一に足を踏み入れた道をそのままたどることになった。つまりこの瞬間から、恐怖と、それとともに反省とが始まったのである。

カミュ『ペスト』(宮崎嶺雄・訳 新潮社)

十一時半に目が覚め、べんべんだらりスマホをいじりながらnoteとかFacebookの凡庸な記事群を眺めているうち、気が付けば一時間経っていた。二年前のちょうど今頃に読んだ養老孟司と山際寿一の対談本『虫とゴリラ』で、どちらかが(たぶん霊長類学者のほう)、スマホは「他人の手」の代理物であって、こんにち誰もが気が付けばそれを握っているのは、それによって「他人といまも繋がっている」と確認したいからなのだ、とたしかそんなことを言っていて、その部分だけ妙に感心したのを覚えている。「現代人はさびしい」なんて月並みなセリフを反芻する。ところでさいきん、「いかにもnoteっぽいタイトル」を見ると恥ずかくなる。石を投げれば当たるほどそこらじゅうにあるからね。とくに恥ずかしくなるのは、作者の「何気ないドヤ顔」が透けて見えそうなやつ。具体例を挙げようと思ったけどムカムカしそうなんでやめた。

小林信彦『笑学百科』(新潮社)を読む。
『天才伝説 横山やすし』以来、二冊目。落語からコメディ、漫才まで、なんでも論じてみせるエッセイ集。平岡正明のような冴えた批評性は無かったが、情報量は豊か。喜劇の見巧者を衒う感じがときどき鼻を突く。「<ギャグ>という語の誤用」と「<パロディ>という語の誤用」では玄人っぷりをさりげなく垣間見せる。
小林のことを「元祖オタク作家」と評した人がいるそうだが、いまいちピンとこない。ただ彼は志ん朝がたいへんお好きなようだから気は合いそう。僕が落語にハマるきっかけになったのは、桂米朝(三代目)と古今亭志ん朝だった。古今亭志ん生(五代目)や三遊亭圓生(六代目)や林家正蔵(八代目)や桂文楽(八代目)といった名人を知ることが出来たのも、まずはこの両者が楷書の芸で以て「落語の妙味」を教えてくれたから。
小林信彦と聞くと、オヨヨ書林のことが必ず頭をよぎる。いま金沢にある古書店で、前は東京青山にあった(田舎っぺのオイラは青山なんて地名を聞いてもナンにもイメージできません)。オヨヨ書林の店舗がむかし竪町商店街にあったときはショルダーバッグ下げて通いまくった。この店名はむろん小林の「オヨヨ大統領シリーズ」に由来している。
レニー・ブルース(一九二五~一九六六)という「毒舌」スタンダップコメディアンがいて、この人はモルヒネ中毒だかで、ずいぶん悲惨な死に方をしたらしいが、本書で高く評価されているビートたけし(全盛期)も少し間違えればこういう運命をたどったのではないか、と考えた。フライデー襲撃事件だとかバイク事故だとか波瀾万丈な過去を持っているが、それでもたとえば横山やすし的な破滅志向性をビートたけしのなかに見ることは難しい。おそらく通常思われているいじょうに「常識人」なのだ。仮想敵の多い「毒舌評論家」佐高信はビートたけしのことがずいぶんお嫌いらしいが、それはたぶん佐高の眼から見て彼の毒舌が、「社会や権力のタブーにだけは決して触れない」ように映るからで、これまで数々の対象をその「容赦ない筆刀」で斬ってきた佐高としては、彼のそういう「実は世渡り上手」なところが癪に障るのだと思う。「言論人」と「芸人」の違いといえばそれまでだけど、ビートたけしの場合、政治討論番組や報道番組なんかにもレギュラー出演していて、しかも真に物議を醸すような発言などほとんどしないものだから、どうしても「文化人」あるいは「ご意見番」っぽい臭みが染み付いてしまう。芸人も権力に楯突けよ、といった種類の意見は巷にあふれていて、それはそれで分からなくもないが、私としては、「たかが芸人にそんなもの求めるかな」と思ったりもする。ビートたけし曰く「お笑いというのはもともとピエロなんだよ」(『バカ論』)。立川志らく曰く「陰で権力をからかい面と向かったらヨイショが落語家の歴史」(ツイッター)。保身術と阿諛追従に長けてこそ幇間というもの。みずから虎穴に入るなんて馬鹿のすること。あからさまな権力批判なんかダサいぜ。粋じゃない。おちゃらけた二枚舌こそ芸人の証。大阪維新の会のお歴々はそんな芸人気質を知り抜いている。たしかに吉村洋文と松井一郎の隣にいるダウンタウンは御座敷が掛かった幇間にしか見えなかった。「利用できるものはなんでも利用しろ」は権力者の基本。「巻かれるなら長いものに巻かれろ」は民衆の知恵。ここにおかしなところは何もない。きょうも平常運転。オッケーグーグル、ユーミンの曲なんか流して。

日除して世情にうとく住みてをり(湯下量園)

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