常識人としての愛国者
九月十二日
十二時四〇分起床。紅茶、カロリーメイトまがいの菓子。ラジオのホワイトノイズ全開。ジジイはいるのかいないのか。ま、気にしないようにしよう。こんなこと書いてしまう時点でもうダメなんだけど。聖人への道は遠い。だがすべての道は聖人に通ずる。「あなたの尊敬する人物は?」という陳腐極まる質問あるね。どう答えますか。俺なら「聖人」と答える。こういうときに固有名詞を持ち出す奴はろくでもない奴だと思う。もっとも「両親」とか答えてしまうタワケよりはまだマシだけど。
リチャード・デイヴィス《with Understanding》ばかり聴いている。さいしょの十分で魂を鷲掴みにされる。「松脂が飛び散るような」名演。
きのうは石引温泉にも文圃閣にも行かなかった。半端な雨のせいでロング・ウォーキングも出来なかった。そのかわり原稿を五枚書けた。
安田浩一『愛国という名の亡国』(河出書房新社)を読む。
日本の「右傾化」を主題としたもの。沖縄、ヘイトススピーチ、生活保護バッシング、笹川良一、本田靖春など話題は多岐にわたる。
ところでさいきん政府は「台湾有事の可能性」などをうまく利用し、防衛費を増大させた。アメリカの対中戦略にもうすでに巻き込まれてる観がある。「周りは敵だらけなんだぞ、ほらウクライナみたいになりたくないだろ」と国民は恐怖心を煽られている。
政治的なものの本質は敵と味方の区別だと論じたのは、カール・シュミット(『政治的なものの概念』岩波書店)。多くの暴力の背景にはある人為的な区別がある。「正統」と「異端」、「攻撃していい対象」と「攻撃してはいけない対象」といった区別が。エジプト学者ヤン・アスマンのいう「モーセの区別」もそうだ(『エジプト人モーセ――ある記憶痕跡の解読』藤原書店)。「真の宗教」と「偽の宗教」があるというこのような区別は、敵と味方の対立をもたらさずにはおかない。「嫌韓嫌中」言説もそうした観点から分析しないといけない。「われわれ」の一体感を強化させるためには、「われわれの安全をおびやかす他者」が必要なのだ。
ところで日本の自称「愛国者」がどこか偏狭に見えてしまうのはどうしてだろうか。俺のなかの愛国者像はもっと知的で包容力があるんだけど。だいたい彼彼女らは、日本の近現代史についてどこまで知ってるの。朝鮮や台湾が日本の植民地だったことも知らないのが結構多くいそうなんだけど。というかさっきから二階の足音うるさいな。だんだんだんだん、カカト歩きするなボケ。なんかの工事中か。深呼吸深呼吸。聖人への道は遠い。ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード。ともあれ外国の軍隊が日本に駐留していることになんの理不尽も感じないウヨクなど、俺は信用しない。
さあ昼飯。今日から図書館入りは「三時半まで」とする。
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